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地域紙創刊の意気込み―プランゲ文庫新聞コレクション


戦後まもなく北勢地域で発行された新聞各種

戦後まもなく北勢地域で発行された新聞各種


 占領下の日本で連合国軍総司令部(GHQ)が検閲のために収集した新聞等は、プランゲ文庫(当時GHQでその任に当たったゴードン・w・プランゲ博士にちなんで名付けられた)新聞コレクションとして、メリーランド大学に保管されている。国立国会図書館では、それらのマイクロフィルム化をしており、県史編さんグループはその中から三重県関係の資料収集を行った。そこで、今回は1945(昭和20)年〜1949年の県内の新聞発行状況などについて紹介してみようと思う。なお、プランゲ文庫については、一昨年の「発見!三重の歴史」の中でも、県内の雑誌の検閲状況を紹介しているので、参照いただきたい。
 この新聞コレクションには、占領期に収集された1万8000余のタイトルの新聞があり、3、823リールのマイクロフィルムに収められている。うち、県内発行の新聞は196タイトルである。内訳は、地域で発行された新聞が63種類、産業団体や学問・文化団体等発行が53種類、学校新聞やPTA新聞などが38種類、労働団体発行が22種類、政党・政治団体等発行が9種類、その他公官庁発行である。
 この中で、北勢地域で発行された新聞について見てみると、日刊で発行されていたのは四日市の「青年文化新聞」から改題された「勢州(せいしゅう)新聞」のみである。それ以外は旬刊ないし週刊の場合が多い。創刊号が含まれているものには、四日市で発行の「新伊勢新報」や「関西新聞」、「北勢民報」、桑名の「旭(あさひ)時報」、員弁(いなべ)町(現・いなべ市)の「北勢旭新聞」、阿下喜(あげき)町(現・いなべ市)の「員弁新聞」がある。発行部数は、記載のあるもので500部〜2、000部である。「勢州新聞」は、1か月50円である。週刊や旬刊の他の新聞は、1か月5円程度が多い。勤労者の初任給の平均月収が5千円前後の時期である。
 「員弁新聞」の「発刊のことば」には、「敗戦後四度の新春を迎えてからすでに1ヶ月、我々は共に新しい心に鞭(むち)うって今年こそはと新日本建設へ力強い歩みを進めなくてはなりません。この時に当って当員弁新聞は真に郷土員弁の文化向上をめざして、ニュースを提供するかたわら郡民の皆様の目となり耳となり口ともなって正しい民主国家建設の一翼たらん事を唯一信条として」創刊したと記す。また、「北勢旭新聞」では、当時の三重軍政部民間報道課長のレイモンド・A・デヴィスや青木三重県知事の挨拶のほか、創刊挨拶として「自らの郷土の民主化を促進し之(これ)を保全する使命達成の為(ため)」創刊を決意したと記している。
 ところで、戦前の新聞等の出版物は、新聞紙法や出版法の規制を受けて、地方官庁を経由して内務省へ届出しなければならないとされ、「三重県統計表」や「三重県統計書」によって1878(明治11)年から1936(昭和11)年の発行状況の概略を知ることができる。その内容は本グループが編集発行した「近代三重の新聞雑誌」(1990年発行)にまとめられている。しかし、戦後になると、どんな新聞がいつごろ発行されていたのか、その全容は明らかでない。今回のプランゲ文庫新聞コレクションは、新聞の発行状況がわかるだけでなく、その記事の中から当時の社会や文化、人々の意気込みや思いを読みとることができる貴重な資料と言える。
 最後に、学校新聞についてみると、「千種(ちくさ)学報」(千種村立千種中学校・現菰野中学校)や「暢達(ちょうたつ)」(津市立櫛形(くしがた)小学校)、「戸(へ)木(き)学報」(津市立戸木小学校)などが見られる。当該校には残っておらず、その存在が初めてわかる状況である。一方、「修(しゅう)成(せい)だより」(津市立修成小学校)は、プランゲ文庫にある創刊号・第2号をはじめ、その後に刊行されたものも含めて学校に保管されており、当時の学校の様子や子どもの状況、社会背景などを追うことができる。
 プランゲ文庫の詳細な分析は始まったばかりである。当時の新聞がその後どのような変遷をたどるのか、内容の分析とともに、その解明が待たれる。

(県史編さんグループ 服部久士)

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