トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 多くの費用と労力灰に―津市の空襲と四天王寺の仏像

多くの費用と労力灰に―津市の空襲と四天王寺の仏像


四天王寺の仏像

四天王寺の仏像


 三重県史編さん室のある栄町庁舎のすぐ近くに、ひときわ大きな木々に囲まれた一角がある。塔世山四天王寺がそれで、寺伝によると推古天皇の勅願所で、聖徳太子建立と伝える。創建については他説もあるが、いずれにせよ、古代にさかのぼる由緒をもつ、当地域を代表する寺院の一つである。戦国期の兵乱による堂舎焼失などもあったが、近世には津藩主の手厚い庇護を受けて繁栄した。
 1797(寛政9)年刊行の「伊勢参宮名所図会」には、四天王寺の伽藍が木版画で描かれている。寺域も今以上に広大で、本堂のほかにも多くの建物が見られる。中でも、境内の北側に南向きに建つ薬師堂は、本堂に準じる大きさで注目される。堂内には、本尊薬師如来坐像を中心に、胎蔵界大日如来坐像・阿弥陀如来坐像・阿しゅく如来坐像・千手観音坐像・薬師如来坐像が安置されていた。
 「安置されていた」と過去形で記したが、実は本尊を除いた5体の仏像は、1945(昭和20)年7月28日の爆撃によって失われた。津市は数次にわたる空襲によって市街地の約7割が焼失するという壊滅的な損害を被ったが、四天王寺も例外ではなく、総門・応供門・鐘楼門の3棟を除いた、ほぼすべての建物が灰燼に帰した。本尊の薬師如来坐像はかろうじて救出され、現在は再建された本堂の脇壇に安置されている。
 失われた5体の仏像は、戦前には国宝に指定され、「三重県国宝調査書」に写真や解説が残されている。また、1914(大正3)年10月から翌年8月にかけて、大日如来を除いた4体の修理が行われ、その折の記録や図面もあって、わずかながらも、その様子をうかがうことができる。
 解説によると、5体はいずれも木造で、平安時代後期の制作である。写真に見える作風から判断して、大日・阿弥陀・阿しゅくの3体が同時期、やや遅れて千手観音、次いで薬師という具合に、同じ時代ではあるが、若干の時間差があると考えられる。
 特筆すべきはその大きさで、本尊の薬師如来像は像高65・0aであるが、大日如来像は242・5a、阿弥陀如来像は232・7a、阿しゅく如来像は238・2aと、像高が2メートルを超える像が3体もあった。このほか、千手観音像が152p、薬師如来像が86・3pといずれも本尊よりも大きい。これに台座や光背が組み合わされることから、実際はさらに高く大きくなる。おそらく、これらの像が安置されていた薬師堂内の空間は、奈良や京都の大寺院にも匹敵するような、かなりの密度を有していたことと思われる。
 また、修理時の記録や図面は「三重県国宝修理精算書」、「三重県国宝修理設計図」といった表題で綴られ、現在は三重県神社庁に保管されている。それを見ると、阿弥陀像と阿しゅく像の損傷が比較的大きかったことがわかる。2体とも以前に施された粗悪な修理によって像容を損じていたようで、かなり大掛かりな修復が実施されている。特に頭部と体部、脚部がそのままでは保持できないことから、内部に木枠を組んで補強することにより、何とかうまく結合させている。また、表面の一部には紙貼りの上に彩色が施されてあったようで、それもいったん剥がしてやり直している。このほか、千手観音像も表面の欠失破損箇所に泥土を埋め、脇手も触れると落ちるような状態であったが、それらも修正されてほぼ創建当初の状態に戻された。
 このように、多くの時間と費用をかけて修復された仏像であったが、戦災によってその姿を今はもう拝することができない。重大な損失であった。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る