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終戦目前、激しい訓練−三重海軍航空隊 野辺山派遣隊


野辺山派遣隊の碑

野辺山派遣隊の碑


 本年夏、八ヶ岳高原を旅行した際、野辺山にある国立天文台を訪れた。ここは、広大な敷地に世界最高レベルの観測能力を持つ45m電波望遠鏡をはじめとした最先端の観測装置があり、一般の見学も可能である。
 受付で住所・氏名を記入すると、係の方が「三重県から来られたのでしたら、あそこにある石碑も見ていってください。」とおっしゃられたので、見学後に近付いて拝見したところ、正面には、「三重海軍航空隊 野辺山派遣隊」の文字があり、背面に碑文が記されていた。
 それによると、この碑は1995(平成7)年8月に三重空野辺山若草会が建設したもので、1945(昭和20)年5月、わが国初のロケット戦闘機の搭乗員を養成するために、三重海軍航空隊から野辺山に1,196名の予科練習生を派遣したという。隊員らは、「幕舎に起居しグライダーにより連日猛烈な操縦滑空訓練に励んでいたが」、8月15日の戦争終結によって解隊となった。1988年8月に「史実を後世に伝え平和を祈念する」ために「三重空野辺山若草会」を結成し、野辺山駅前に「予科練之碑」を建立した。さらに、戦後50年を機に、その跡地にも、この碑を建てたというものである。
 三重海軍航空隊については、一志郡香良洲町(現津市香良洲町)に設立され、現在は跡地に若桜福祉会館という記念館が建っている程度のことは知っていたが、野辺山に隊員を派遣していたことはまったく知らず、早速帰ってから『香良洲町史』を見るなどして調べてみた。
三重海軍航空隊は、1942年8月1日に海軍飛行予科練習生(予科練)教育隊として開隊された。香良洲に設置されたのは、鈴鹿と明野のちょうど中間に位置し、雲出川の三角州という立地条件も好都合であったことにもよる。香良洲町の面積のおよそ三分の一に当たる一・三平方キロメートルを占有した施設であり、伊勢湾に面した広大な敷地内の北側に兵舎・庁舎のほか体育場・図書庫・病舎など多くの建物が建てられ、南側には練兵場(のちの飛行場)や射撃練習場が配置されていた。
 当初は「香良洲航空隊」の名称で建設が進められ、地元もその名を希望したが、カラスでは勇ましいイメージに欠けるのか、開隊時には「三重海軍航空隊」と改称された。
 最盛期には15,000人以上の予科練習生が在隊し、その日課は、夏5時、冬6時起床で始まり、精神教育、体育、航海・航空術、通信術、機関術、砲術、さらには、国語・漢文、歴史・地理などの訓練や教育が繰り返し行われた。修業年限も甲・乙・丙種それぞれ異なり、当初は二年六ケ月〜六ケ月と様々であった。
 1943年以降、航空要員の大量採用に伴い、三重航空隊も奈良・西宮・滋賀・高野山に順次分遣隊(のち独立した航空隊)を設置し、また、予科練習生の倉敷航空隊への疎開や本土決戦に備えての特攻基地の計画地への派遣なども行われた。
 『香良洲町史』には野辺山派遣隊についての具体的な記述はなく、総員一覧表の中に若干の説明がある。それによると、派遣隊は甲種14期と乙種20期の飛行予科練習生で編成され、14期が美保、松山、小松、滋賀、鹿児島の航空隊より転入隊した者で、20期が三重空本隊と鹿児島より転入隊した者から構成されていた。しかし、調査の結果、甲種14期386名と乙種20期152名しか判明しなかったようで、他は確認困難であったため、実数が掲載されている。
 1945年5月という、いわば戦況がさしせまった時期でもあり、この野辺山派遣隊の詳しい事績はわからない。
 三重空野辺山若草会については、石碑建立後も「わかくさ」という会報が発行されているらしい。残念ながら実見しておらず、今後の追跡調査に期待したいと思う。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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