トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 山あいの村に光を供給−馬野川上流の水力発電所跡

山あいの村に光を供給−馬野川上流の水力発電所跡


山中に残る貯水槽跡と送水口

山中に残る貯水槽跡と送水口


 国道165号線を津方面から西に向けて車を走らせると、秋の澄み渡った青山高原の山頂に風力発電の風車がゆっくり回転している様がはっきりと見える。風力発電は環境汚染を抑制するクリーンエネルギーとして注目されており、今では旧久居市の4基と第三セクター2社分28基を合わせ32基が稼動している。市発行のパンフレットによれば、発電規模は合計3万4千kwで約2万世帯分の需用を賄うことができるという。
電力事業は、近代化に欠くことのできない重要な基幹産業の一つであった。青山高原西麓の旧大山田村(現伊賀市)の奥馬野には、1910年代から50年代後半まで稼動していた馬野川水電株式会社の発電所跡が残っている。
1916(大正5)年8月、馬野川水電株式会社設立の申請が三重県に提出され、そこから事業が始まった。設立当初の資本金は20万円で、出資者は、発電所の設置された布引村をはじめ、阿波村・山田村の3か村(55年合併して大山田村となる)から募られた。3か村の全戸数の約40%が出資し、同会社の代表取締役社長には布引村長であった馬岡次郎が選任された。言わば、村営の発電所のようなもので、村民の熱い期待が込められていたことがわかる。18年馬野川上流で堰堤や発電所が着工され、19年1月から操業が開始され、3か村のほぼ全戸に電力を供給した。
伊賀地域では、既に1904(明治37)年に現在の伊賀市岩倉の木津川で巌倉水電株式会社(代表取締役田中善助)が創業され、上野の町には電灯がつくようになっていた。 当然のことながら、上野の町以外の地域でも電灯敷設が渇望され、この時期、青蓮寺川・比奈知川・川上川等の上流域でも小水力発電所が建設されていた。伊賀地域で水力発電ブームが起こっていたのである。
そのため、馬野川水電株式会社設立申請がなされた頃の新聞(1916年8月26日付け)には、同会社の設立に加えて、馬野川水系での巌倉水電株式会社の事業拡張や阿波水力製材電気合資会社という別会社の設立出願などの記事が取り上げられている。新聞にも「三会社競争出願の姿を呈し」と記されており、馬野川での水力発電開発をめぐってさまざまな計画があったらしい。ただ、阿波水力製材電気合資会社が馬野川水電株式会社へ合併されたことを示す史料はあるが、その後の詳しい経過はわからない。
こうした競争の中で、3か村が望んだ馬野川水電株式会社が成立した。しかし、電力需要の増大とともに供給量が不足し、発電施設の増設だけでは追いつけなかった。1938(昭和13)年、同社は、戦時期に向けた電力統制で東邦電力会社に吸収合併され、旧上野町の上野変電所と連繋されたことによって電力不足はようやく解消されたという。馬野川の発電所はその後も稼動を続けたが、1958年3月に廃止された。
今、現地を訪ねてみると、周囲は手入れの行き届いた杉林となり、馬野川簡易水道の建物の裏手に、発電所敷地の石積みが木々の間にひっそりと残っている。さらに800mほど上流に取水用堰堤があり、そこから山肌を縫うように導水路が延びている。発電所付近まで流れてきた水は、貯水槽を経て山の斜面を勢いよく流れ落ちて発電機のタービンを回す仕掛けであった。紅葉の美しい渓流沿いには導水管を支えた支脚が点々と残っており、当時の様子が偲ばれる。中部電気協会発行の「ひかりとねつ」本年8月号で、浅野伸一さんがこの発電所跡を取り上げ紹介しておられるが、地域の近代化に貢献したこれらの産業遺産に光を当てて、記録に残すことの重要性を改めて感じる。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る