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100年前に科学的手法−法隆寺「非再建」を主張した平子鐸嶺


浄安寺境内「平子尚之墓」

浄安寺境内「平子尚之墓」


 津市本町の浄安寺境内に、「平子尚(ひさし)之墓」と陰刻された墓碑がある。傍らには、墓主の経歴や業績を略記した銅板が埋め込まれた石柱が建つ。
  尚は、「鐸(たく)嶺(れい)」と号した美術史学者で、1877(明治10)年に平子尚次郎の長男として津に生まれた。83年に養正小学校に入学、89年に私立励精館(現津商業高等学校)に学び、93年には東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科に入学した。97年卒業とともに同学校の洋画科に再入学し、1901年7月の卒業後は、出版社の勤めながら、哲学館(現東洋大学)で仏典・漢文なども習得したが、更に研究に専念するため、出版社をやめて03年以降は東京帝室博物館兼内務省嘱託となった。のち10年には、内務省古社寺保存委員にも就任して日本美術の調査・研究に従事した。
  平子鐸嶺は、特に法隆寺論争の非再建論者として有名であった。ここで法隆寺論争について簡単に紹介すると、奈良・法隆寺西院伽藍の金堂・塔・中門・回廊の建築年代をめぐって起こった論争である。言うまでもなく、同伽藍が日本最古の建造物であることから、建築史・美術史・日本史・考古学などの諸研究者によって、19世紀末からおよそ半世紀にわたって論争が繰り広げられたのである。
  『日本書紀』の「天智天皇9(670)年庚午4月壬申(30日)条」に、法隆寺が「一屋も余すこと無く」焼失したとする記事がある。これを受けて、1899年に、黒川真頼(まより)・小杉椙邨(すぎむら)の両氏が、現在の伽藍を火災後再建された建築と考える説を発表していた。
  これに対し、建築学者の関野貞(ただし)は、1905年に様式論を基礎にして、論争の発端となる非再建論を提唱した。中でも、彼は飛鳥時代の造営尺が高麗(こま)尺(じゃく)を用いていたことに注目した。これを用いて法隆寺の主要な建物を実測したところ、造営尺として適合したことから、火災後再建されたものではないと結論した。
  平子鐸嶺も、関野と同様に金堂や五重塔が古いスタイルであるとして非再建論を提唱した。彼は、「庚午年」の焼失記事を『日本書紀』が天智天皇9年としたのは誤りで、干支が同じ60年前の推古天皇18(610)年のことであるとした。『日本書紀』に誤りがあるという、当時としては画期的な説を唱えた。
 こうした関野・平子の説が再建論者に与えた影響は大きく、論争は一時非再建論に大きく傾く。しかし、再建論側からは喜田貞吉が登場し、平子と激しい論争を展開し、その後も様々な立場からこれに参加する者があって、法隆寺論争は昭和の時代まで続いていく。
  やがて、1939(昭和14)年の若草伽藍の発掘や戦後の建物解体修理等に伴う発掘調査によって、いくつかの新事実が明らかになった。現在、論争は再建説に決着しているが、100年も前に、法隆寺の建築年代を科学的方法で決定しようという最初の試みであった関野・平子の説は、今も高く評価される。
  法隆寺の西大門を出て右に坂道を登っていくと、2基の供養塔が建っている。1基はアメリカの東洋美術史学者ウォーナーの供養塔で、もう1基が「鐸嶺塔」である。法隆寺の故佐伯定胤管長が建立したもので、鐸嶺と法隆寺の深い結び付きがうかがえる。
  1911年、平子鐸嶺は肺患のため鎌倉で没した。35歳という年齢はあまりに若く、もし存命ならば、美術史研究に様々な新しい説が誕生したかもしれない。また、ふるさと三重をテーマにした論考を探そうと、「考古界」や「歴史地理」などの雑誌を調べてみたが、見当たらなかった。もっと長命なら、それも生まれた可能性があったと思う。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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