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各地で精力的に講演−県内の耕地整理奨励に尽力


上野英三郎胸像とハチ公銅像の対面(1984年4月8日毎日新聞社撮影)

上野英三郎胸像とハチ公銅像の対面(1984年4月8日毎日新聞社撮影)

上野英三郎が記した「土地改良論」と「耕地整理講義」の表紙

上野英三郎が記した「土地改良論」と「耕地整理講義」の表紙


 JR渋谷駅前の「ハチ公像」と言えば、よく知られる銅像であるが、そのハチ公の飼い主が三重県出身の農学博士であることは以外に知られていない。一志郡本村(現津市、旧久居市)生まれの上野英三郎(ひでさぶろう)がその人である。彼は農科大学(東京大学農学部の前身)に籍を置いた農業土木学草創期の科学者で、『土地改良論』や『耕地整理講義』などの著作がある。
 明治政府はあらゆる分野で近代化を押し進め、中でも農業の近代化は欠かせないものであった。その基礎となるのが耕地の改良であったが、狭隘な田圃(たんぼ)あるいは前代からの複雑な所有権が絡み、耕地整理ははかばかしく進まなかった。そこで、政府は1899(明治32)年に土地所有者の3分の2以上の同意で事業に着手できることを盛り込んだ「耕地整理法」を制定した。そして、同年、大日本農会付属東京高等農学校(後の東京農業大学)と農科大学に委託して耕地整理に携わる技術者養成講習を開始した。
 ここで中心的な役割を果たしたのが上野英三郎である。
彼は95年東京帝国大学農科大学を卒業、大学院で欧米農業科学の研究を深め、1902年に農科大学助教授に就くとともに、農商務省の技師も兼務して技術者養成に携わった。このときの講義録に加筆して出版したのが前述した『耕地整理講義』である。内容を詳述する余裕はないが、@狭小でいびつな田圃を区画整理して拡大・短冊形とする。A畦畔に沿って農道を整備する。B雨水のみに頼らず、用排水施設を導入する。C入り組んだ土地所有を改善し、営農規模を拡大する。これらを実践するためのテキストであった。
 三重県でも、早速02年に阿山郡上野町(現伊賀市)で最初の耕地整理事業工事が実施された。わずか18町であったものの、その後は徐々に施行地域や工事面積も増加し、12年度には17地域、1、600町以上もの耕地整理事業が行われた。そして、40(昭和15)年度までに283か所、約11、000町の耕地整理が完了した。
こうした三重県における耕地整理、特に着手時には、上野博士の強力な指導があった。42年に発行された『三重県農会史』によれば、「本会が耕地整理の奨励に着手したのは明治33年で、……本県出身者にして当時東京帝国大学農科大学教授の職に在る農業土木の権威者農学士上野英三郎氏に依嘱して耕地整理の講話会を開き、其の必要なる所以を宣伝し、併せて模範整理の候補地に就いて指導を受けた」とある。
  このように、上野博士は各地での講演や実地指導など精力的に取り組んでいくが、25(大正14)年5月21日急逝した。享年54歳であった。墓地は、久居の法専寺と東京の青山霊園にある。博士の業績を称え、東京大学農学部には胸像が建てられ、社団法人日本農業土木学会では71年から農業土木事業に業績のあった団体に「上野賞」を贈呈している。
  博士と秋田犬「ハチ」の物語は、今更詳しく述べる必要はないが、ハチはよく博士の後について駒場の大学や渋谷駅方面へ出掛けていた。博士の急逝後、近所の知人宅で飼われ、渋谷駅前でハチがたびたび見かけられるようになった。32年になって「いとしや老犬〜今は既になき主人の帰りを待ち兼ねる7年間」という新聞記事が載り、さらに34年にハチ公の銅像が駅前にできたりして、またたく間に「忠犬神話」が出来上がっていった。また、37年からは小学校の修身の教科書にも取り上げられ、多くが知るところとなった。
 なお、当初の銅像は戦時下の金属類回収令によって供出され、今のハチ公像は48年に銅像の制作者安東照の御子息によって再建されたものである。それに、35年に死んだハチの遺体は剥製にされ、現在も東京国立科学博物館に保管されている。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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