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起業家精神を評価―稲葉三右衛門の藍綬褒章受章


藍綬褒章授与関連の公文書(東京・国立公文書館所蔵)

藍綬褒章授与関連の公文書(東京・国立公文書館所蔵)


 稲葉三右衛門と言えば、明治初年に四日市築港に乗り出し、四日市発展の恩人として小学校の地域学習教材でも大きく取り上げられている。
 これまでの稲葉三右衛門に関する通説は、四日市築港工事が1884年(明治17)5月に竣工し、その功績が認められ、88年10月に藍綬褒章を受章したとされている。
 三右衛門が84年の時点で築港工事を竣工までこぎつけたことについての疑問は、以前、この欄でも述べたことがあるが(「発見!三重の歴史」58)、最近、国立公文書館に、三右衛門の藍綬褒章受章に関係する史料があることが分かり、閲覧したところ、通説とはかなり異なっていることが分かってきた。そこで、今回はこのことについて話をしようと思う。
 まず、驚いた点は、三右衛門に藍綬褒章を与える動きが既に84年から始まっていたことである。9月26日、三重郡長から県令に対して「公衆ニ便益ヲ与ヘタル篤志者」であり、県庁においてもしかるべき評議をいただくよう上申している。ただ、ここで明確にしておかねばならないのは、この上申書は築港工事の「発起者」として三右衛門の功績を評価したものであり、工事を竣工まで導いた功績を称えたものではない点である。現にこの上申書の中には、工事が「未タ充分ノ成功ハ見ス」というくだりがある。
 この上申を受けた県では、同年10月16日、内務卿(山県有朋)にあてて「公益ニ関スル起業者褒賞ノ儀ニ付具状書」を出している。これにはとても興味深い理由が記されている。前半は工事の経緯を記し、三右衛門が資力を使い果たして一家が破産し、遂に竣工できなかったことは遺憾この上なく、本人にとっては実に憫(びん)然(ぜん)(あわれ)な結果だと、工事が完了に至らなかったことを述べている。そして、三右衛門の築港計画が当時の四日市の「便益」の始まりであり、「公益ニ関シ功績著明ナル者」である。このまま「埋没」しては「管内有志者ニ於テ起業ノ精神ヲ沮廃(そはい)スル憂モ有之(これあり)候(そうろう)」、つまり、後進の起業の芽を摘んでしまうことになりかねないというのである。
 12月24日、内務卿から賞勲局総裁にあてて「賞与之儀ニ付申牒」が出され、褒章授与を行いたい旨を伝えた。その理由には、長年築港事業に尽力し、一家の財産を費やした「奇特ノモノ」と認めたからである。ただし、ここにも「工事ハ未タ成ヲ告スト雖トモ」、これまでの功績は著明であり、至急詮議いただきたいと記されている。
 ところが、この動きは賞勲局の段階で約4年間止まってしまったようである。
 88年9月27日、三重県知事から賞勲局総裁にあてて追申を行っている。その中には、波止場はやや不完全だが、全く竣工に至らなかったというようなものではないと述べた後、「目今又五拾万円ノ費額ヲ目途ニ更ニ築港スルノ計画有之(これあり)、果シテ此工事落成スルニ至レハ三右衛門ノ功績モ徒労ニ属スル様可相成候(あいなるべくそうろう)ニ付テハ斯ノ如キ場合ニ至ラサル前、速ニ御賞与ノ運ニ相成度(あいなりたく)」とある。この50万円の築港工事とは、県が構想しデ・レーケが設計にかかわった巨大な四日市港の建造構想である。これが完成すれば三右衛門の功績がかすんでしまうため、そうなる前に早く賞与を決定して欲しいというのである。
 その直後の10月5日に藍綬褒章授与が決定したのである。その文面には、本来ならば竣工を待って授与するつもりであったが、知事の申牒もあり認めたと但し書きがある。
 以上のように、84年の時点で三右衛門が築港事業を完成したという解釈は誤りである。当然、藍綬褒章も事業竣工による功績ではなく、工事の起業が四日市の発展につながったと評価されたためであった。のみならず、当時新たに持ち上がった巨大築港プロジェクトが、三右衛門の起業功績を薄め、彼を埋没させることが将来マイナスとなるという、官側の判断による後押しもあった。
 それが、いつの間にか三右衛門が84年に港を完成させ、その功績で藍綬褒章を受章したという理解になってしまった。筆者はその経緯に大いに関心を寄せている。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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