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伝統の網取式受け継ぐ−明治期に阿田和村で設立された捕鯨会社


阿田和村捕鯨図と八幡神社奉納絵馬(いずれも部分)

阿田和村捕鯨図と八幡神社奉納絵馬(いずれも部分)

阿田和村捕鯨図と八幡神社奉納絵馬(いずれも部分)

阿田和村捕鯨図と八幡神社奉納絵馬(いずれも部分)


 伊勢湾から熊野灘沿岸にかけて、各地で鯨船行事や鯨船を使った祭りが見られ、三重県と捕鯨業の関わりの深さがうかがわれる。近世においては、志摩地方から熊野灘沿岸の全域にわたって銛(もり)突き捕鯨や網取式捕鯨((突取式あるいは掛け網銛突き捕鯨ともいう日本式捕鯨業)が行われていたが、和歌山の太地浦や古座浦に比べ規模は小さく、津波や捕獲不振によって短期間で廃絶や衰退を繰り返していた。
  今回は、明治期になって熊野灘沿岸で捕鯨会社が設立され、網取式捕鯨業が行われていたことを紹介したい。その様子を描いたものに阿田和村(現御浜町)の捕鯨図がある。かつて県立博物館で展示されていたこともあるようだが、現在は補修を終えて町教育委員会で保管されている。大きさは、縦151a、横171aの大きなもので、図の上部には「三重県紀伊国南牟婁郡阿田和村捕鯨会社出品捕鯨景況鯨解体解剖及鯨猟具一覧之図」と記す。上半分に三艘の鯨船(銛を打ち込む勢子(せこ)船、網を運ぶ網船、鯨を運搬する持(もっ)左右(そう)船)と銛などの漁具、幟(のぼり)を描き、左中央には10艘の鯨船が鯨を取り囲み、右下には海岸に鯨を引き揚げて解体する様子が巧みに描かれ、左下に阿田和鈴木家蔵とある。
  また、御浜町の八幡神社には、「明治13年旧12月、城内善治郎」と記し、捕鯨を描いた縦89a、横65a余の絵馬が奉納されている。先の捕鯨図に比べると描き方はやや稚拙であるが、3本の銛が突き刺さった鯨を取り囲んで荒波の中で11艘の鯨船による捕獲の様子が描かれている。「鯨一頭で近隣の七浦をうるおす」と言われるほどであり、命がけで鯨に立ち向かい、捕獲による隆盛を願った地元民の祈りと気迫が感じられる。
  さて、「三重県水産図解」では、阿田和村の鈴木雄八郎が和歌山県から漁夫を雇い入れ、1875(明治8)年に鯨5頭を捕獲したとしている。その後、鈴木雄八郎は、地元の有志とともに捕鯨会社を設立することになる。「三重県勧業課年報」で確認したところ、81年11月、阿田和村において資本金1万円で「南牟婁郡捕鯨会社」が設立されたとある。ちなみに、この時の資本金1万円以上の会社は、椋本村(現津市)の三重製茶会社や山田一志久保町(現伊勢市)の貸付業の共進社などわずか7社である。さらに、1903年の三重県告示第20号では、阿田和村の鈴木伊八郎(雄八郎の一族か)を代表とし、毎年10月1日より翌年4月30日まで鵜殿村(現紀宝町)から荒阪村(現熊野市)に至る海面での特別漁業第1種捕鯨業の免許の付与が記載されている。
  ところで、04年に東洋漁業会社が日露戦争で分捕した捕鯨船の貸付けを受け、熊野灘沿岸で近代ノルウェー方式の捕鯨銃を使って百数十頭の鯨を捕獲すると、多くの捕鯨会社が熊野灘沿岸に進出し、07年には大日本捕鯨会社が荒阪村二木島に出張所を置いて捕鯨銃による捕獲を始めている。荒阪村旧役場文書の中には、この大日本捕鯨株式会社やその後合併した東洋捕鯨株式会社との契約書・捕獲表などが残されている。しかし、この二木島出張所もやがて廃止され、 15(大正3)年春には操業を止めている。
  なお、阿田和村捕鯨会社の資料は既になく、営業内容を確認することはできないが、「三重県統計書」によると、南牟婁郡では12・13年に年10数頭の捕獲数と数万円以上の生産額があったことがわかる。しかし、14年以降は、1頭や捕獲なしの年が続き、「南牟婁郡誌」では26年頃までは継続していたと記述するが、それ以降は「三重県統計書」に鯨の統計はなく、廃業となってしまったようである。

(県史編さんグループ 服部久士)

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