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計画判断に報告書2通−デ・レーケと四日市築港事業


明治12年デ・レーケ四日市港視察報告書訳文(右)冒頭と(左)末尾(四日市市立博物館所蔵)

明治12年デ・レーケ四日市港視察報告書訳文(右)冒頭と(左)末尾(四日市市立博物館所蔵)


 ヨハネス・デ・レーケは、オランダ人の土木技師で、来日し、近代幕開け時期の港湾・河川整備事業に多大な功績を残した。三重県においても木曽・長良・揖斐の三川改修工事や四日市築港の設計に携わったことはよく知られている。かつて「発見!三重の歴史」の第3回目にも、県庁に保存される「四日市港近傍町村之図」の港湾部分に鉛筆の書込みがあり、それが研究者の調査によってデ・レーケの直筆のものと判明したという話を取り上げた。ただ、その地図への書込みの時期は、彼が修港計画書を提出した1986(明治19)年もしくは87年と考えられた。
  しかし、デ・レーケが1878年から開始された三大河川改修事業と同じ年に四日市築港事業に関わっていたことは意外に知られていない。
  今回、四日市市立博物館所蔵の稲葉家文書のなかに、彼が78年10月5日と79年10月1日に内務省土木局にあてた「四日市港ノ件」と題した2通の報告書の訳文(平野重彰訳)が含まれていることが分かった。これを手がかりに、この時期の彼と四日市築港事業との関わりを見てみたい。
  まず、78年10月5日の報告書によれば、デ・レーケが四日市港を「点視」(点検)するよう内務省土木局より命ぜられたのは、「本年六月余尾陽ニ在テ山河ノ工業ヲ巡見セシ頃」とある。ちょうどデ・レーケが三川改修事業で愛知県を巡視していたわけで、四日市港に到着したのは7月12日であった。当時、岩村定高三重県令によって築港構想が打ち出された時期であり、ほかの文献にも、三重県が内務省傭工師デ・レーケに嘱託して測量設計に着手したと見える。
  この時の四日市港の状態は、75年1月に稲葉三右衛門から引き継いだ県営工事が、76年の地租改正反対一揆(「伊勢暴動」)のため中断したまま放置されていた。
 港の周囲を熟視したデ・レーケは、木曽川や周辺の河川が運ぶ多量の土砂によって港内外の水深が浅くなっていることを指摘し、築港以来4年間の土砂堆積具合を知るため水深の測量を命じて大阪へ去った。測量結果を受け取ったのは9月24日である。彼はわずか4年で1尺も水深が浅くなったことを知り、土砂の堆積を予防する方策の設計に乗り出し、1000分の一の設計図をこの報告書に添えた。港内を広くし、「港口」を6尺以上掘り下げ、「噴水閘(こう)」(水門)と「水槽(噴水溜)」という構造を備えたものであった。そして、翌79年10月1日の報告書では、6000分の一の構想図を添えて、前年の設計図に基づいた築港計画を提案した。
報告書は写しで、設計図がないため港の具体的な構造は分からないが、『伊勢新聞』の87年10月22日〜24日に掲載された「四日市港実測余聞」と題した回顧談でその様子がうかがえる。それによれば、78年頃に鈴鹿川流域の旭村(現四日市市)地先に至るまでの広範囲に既成の埠頭を含め7本の埠頭をめぐらせ、定期汽船の接岸を可能にする大規模な築港計画であったという。
  この築港計画は、岩村県令が内務省土木局直轄事業として実施を企図していたものであり、デ・レーケの四日市港調査はそれを受けてのことであったと考えられる。しかし、土木局は、2度目の報告から約1カ月後に「方今多事ノ際ニ付難及詮議」と、直轄の築港事業を断念した。デ・レーケの報告が判断材料になったようである。
  それに対し、三重県では「土木局水利工師ノ言ヲ聞キ、築港ノ事ハ一日モ等閑(なおざり)ニ附スベカラズ」と、デ・レーケの報告を真剣に受け止めた。これ以上、港を放置できないことから、もとの起業者稲葉三右衛門に事業を託すことを決定し、81年の工事再開につながったのである。
  稲葉家に残った2通のデ・レーケの報告は、三右衛門が工事再開をするために参考に入手したものであろう。果たして、事業にどのような影響があったのか、更に港湾専門の土木技師などの詳しい分析が必要である。

(石原佳樹)

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