トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 鳥居の建設費を工面−日永の追分けと渡辺六兵衛

鳥居の建設費を工面−日永の追分けと渡辺六兵衛


整備された「日永の追分」(伊勢街道方向をのぞむ)

整備された「日永の追分」(伊勢街道方向をのぞむ)


 少し涼しくなった。「街道ブーム」の折、旧街道を探索するにも良い季節である。今回は、四日市市にある東海道と伊勢街道(参宮道)の分岐点、日永の追分を紹介してみよう。
日永の追分は、1938(昭和13)年県指定史跡となり、75年には追分の隅にあった道標・灯籠、さらに伊勢街道を跨(また)ぐ鳥居などが嵩上(かさあ)げされて公園のように整備された。ただ、手水(ちょうず)場のみは一段低く、導水の関係もあって原位置を保っている。今も多くの人が水を汲みにやってきているが、北側に東海道を拡幅した国道1号、東側には伊勢街道を拡幅した旧国道23号が通り、鳥居をくぐって往来することはなくなった。
  道標には「右京大坂道 左いせ参宮道」「すく江戸道」「嘉永二年己酉春二月 桑名魚町尾張文助建之」と刻まれ、隣の石灯籠正面にも「ひたり さんくう道」とある。また、鳥居は「神宮遙拝鳥居」で、現在の鳥居は1975年に建てられたものであるが、当初は1774(安永3)年に一志郡須ヶ瀬村(現津市)出身の渡辺六兵衛が建設した。
渡辺六兵衛は、江戸芝桜田兼房町に橘屋という店をもつ伊勢商人であった。17世紀末に江戸に進出し、最初は紙、のちに酒を商っていた。東海道で江戸と京都を往来する多くの旅人が、参宮道との分岐点で伊勢神宮を遙拝する鳥居がないのを遺憾として、橘屋支配人・伊勢屋七右衛門に命じて鳥居を建てさせたという。
  現在、須ケ瀬の渡辺六兵衛御子孫の家には、そのときの証文が残っている。それは、柱長弐丈壱尺六寸(約6・54b)・笠木長弐丈五尺(約7・5b)の鳥居建設と敷地料として100両を日永村が受け取り、鳥居が腐損したときは日永村で建て替えるという趣旨の文書で、庄屋・肝煎など村役人11人が連名で伊勢屋七右衛門に宛てて提出したものである。
1774年、日永村では伊勢街道両側の敷地を拡幅して鳥居を建てるとともに、余剰金で別の土地を買収した。その土地は「鳥居地」と呼ばれ、そこから生まれる利潤を鳥居建て替えの費用に充てることにした。ちなみに、鳥居の建設は、1809(文化6)年を第2次とし、1929年の第8次まで神宮の式年遷宮にあわせて実施されてきた。
 この第8次の鳥居建設に関する資料も、渡辺家に残されている。それによれば、このときの鳥居建て替えは実に華々しかった。前年1月に木曽で伐採され日永村地内の鹿化(かばけ)川貯木場にあった用材は、8月30日に四日市港に廻送され、9月1・2日の両日で日永の追分まで御木曳が行われた。その御木曳の人員は約1700人に達したという。上棟祭は9月21日に実施され、渡辺家の先代が日永村長から招待を受けて出席された。先代がまだ学生のときで、「学生故参列致難ク」と神酒料を送り、いったんは辞退されたが、「是非参列頼ムト電報アリ……宅迄迎ヒニ来ラレ」たので、参列されたという記録も見られる。また、同記録には、「昔六兵衛ト云フ人ノ寄附シタ地ハ今鳥居地トシテ鳥居ノ基本金ニナル、年二十俵ソレヲ廿一年利殖スル、昭和四年改造ノ時ハ金五千円有」とも記され、鳥居地が水田で年間20俵の米が収穫されたこともわかる。
  1975年には、日永地区連合自治会が主体となって第9次の鳥居建設や整備工事が実施された。そして、今でも毎年9月21日には鳥居祭が行われ、その経費を生む鳥居地は有料駐車場となっているらしい。それにしても、200年前に伊勢商人・渡辺六兵衛が提唱した基本財産の機能が生きているわけで、そこに歴史を感じる。

(県史編さんグループ 吉村利男)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る