一人の戦国武士の波乱の生涯−佐藤信安
佐藤信安置文(大西春海氏所蔵)
戦国時代、伊勢国の南半国を中心に勢力を有していた北畠氏の被官(ひかん)に、佐藤信安(のぶやす)という人物がいた。その佐藤信安が残した一通の文書を手がかりに、戦国武士の生涯の一端を垣間見てみよう。
佐藤氏は、本来は現在の福島県に位置する奥州信夫(しのぶ)郡(ぐん)を本拠とした一族で、大百足退治の伝説や、承平・天慶の乱(935〜940年)で平将門(たいらのまさかど)を討ったことでも知られる「俵の藤太」藤原秀郷(ふじわらのひでさと)をその先祖にもつ。平安時代末期の源平合戦の時、源義経に従って戦った佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の兄弟も、同じ一族である。それが南北朝の内乱の時、佐藤一族の一人十郎左衛門尉清親(じゅうろうざえもんのじょうきよちか)とその子息らが北朝方として各地を転戦し、やがて伊勢国に土着したものである。
伊勢国で所領を得たのは、清親の孫にあたる佐藤新蔵人(しんくろうど)清基(きよもと)である。彼は北畠満(みつ)雅(まさ)から一志郡内を中心にいくつか所領を与えられており、このころ、本格的に北畠氏の被官衆に加えられたと考えられる。佐藤信安は、その清基から数えて五代目に相当する。
ところが、信安は突然、家伝の所領はおろか、家来たちをも召し上げられてしまったのである。その理由については、関係資料には記載がなく、不明である。ただ、信安が残した1555(天文24=弘治元)年7月付けの置(おき)文(ぶみ)によると、それは信安が17歳の時であったという。そして、浪人となった信安は一時、東国に滞在していたとある。恐らく、本拠である奥州の信夫郡の一族を頼ったのではないだろうか。
ところで、このころ、北畠氏の当主具(とも)教(のり)は、伊勢国安濃郡の在地領主長野氏と激しく対立していた。このことを知った信安は急遽帰国するとともに、家所(いえどこ)氏の手に付いて長野勢と合戦し、めざましい軍功をたてている。
まず「安部口」の合戦で首一つを挙げている。「安部口」は現在の津市安濃町安部に比定される。また、現在の津市神戸内に当たる「八太」での合戦は特に長期の激戦であり、幾度かの戦闘で傷を受けながらも、合わせて二つの首を挙げている。また、この間、「下之口」と「垂水之北鷺山」に築かれた城に入って戦ったことが、信安の置文に見えている。「下之口」については、現在のどのあたりに相当するのかは不明であるが、近年、「垂水之北鷺山」に相当する垂水城が発掘調査されている。
当時、佐藤信安は、北畠氏の有力被官家城(いえき)式部(しきぶの)大輔(だゆう)のもとに身を寄せていた。このような庇護関係を親子関係に例えて、「寄(より)親(おや)・寄子(よりこ)」と言う。そして、これらの戦功をもとに、寄親である家城式部大輔を介して所領の返還を求めたが、佐藤氏の所領は既に同じく北畠氏の被官である江見(えみ)駿河(するがの)守(かみ)に与えられており、返還訴訟は不調に終わっている。
その後、置文によれば、信安は近習(きんじゅ)として2、3年奉公したようである。そして、所領の返還訴訟についても「度々の忠節をもって申し候へども、事相終わり、御訴訟をも申さず候」として、一度は全く諦めたようである。ところが、1555年7月4日、寄親家城式部大輔とともに在陣していた田丸城(度会郡玉城町)から、大河内城(松阪市大河内町)の北畠具教のもとに召し寄せられ、「度々之忠節」に対して、ようやく所領返還の奉書を獲得したのである。
信安の置文によると、この時信安は30歳。逆算すれば、信安は1526(大永6)年の生まれとなる。浪人となったのが1542年。13年間余りの浪人生活であったことになる。所領を失ったのが突然ならば、その回復も唐突なものであった。
(県史編さんグループ 小林 秀)