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軍事より経済に主眼−中世伊勢の参宮道と関所


北畠氏奉行人奉書(南伊勢町古和浦公民館所蔵)

北畠氏奉行人奉書(南伊勢町古和浦公民館所蔵)


 古代以降、わが国の街道に、多くの関所が設けられていたことはよく知られている。歌舞伎の「勧進帳」に代表されるように、関所を舞台としたり、関所が登場する文学的作品も数多い。飲み会などで、会費を徴収するのに、いまだに「関所」などと表現したりしている。
 古代律令制下の関所は、軍事、あるいは治安的な目的で設けられ、機能していた。また、近世の関所も、「入り鉄砲・出女」の言葉で知られるように、きわめて政治的側面の強いものであった。
 それに対し、中世の関所は、通行人より関銭を徴収する、経済的な目的が主眼であった。したがって、交通量の多い街道には、それだけより多くの関所が設置されていた。室町時代から戦国時代にかけて、伊勢国内には無数の関所があったとされている。これは、当時「道者」と呼ばれていた伊勢神宮への参詣者の増加と無関係ではないであろう。
 これら中世の関所では、人別いくらの銭が徴収されていたのであろうか。
 15世紀の中ごろで、現在の明和町斎宮に設置されていた2ヶ所の関所では、人別12文が徴収されていたことが記録に見えている。また1498(明応7)年には、南伊勢を領域としていた伊勢国司北畠具方(きたばたけともかた)から、大和国宇陀郡の在地領主で被官の澤方満(さわかたみつ)に対し、高木関所(現松阪市)の関銭のうちから、10文が知行として与えられている。これは、高木関で徴収された人別の関銭の全額であったわけではない。このことから、少なくとも高木関では、人別で10文以上の関銭が徴収されていたことが明らかとなる。
関銭は、場所によっては、徴収される金額に大きな相違があった。特に外宮から内宮に向かう途中の小田に設けられた関所では、実に斎宮関の2倍以上の、人別30文が徴収されているのである。
 ここで、16世紀初頭ごろの、現在の松阪から内宮に至る道沿いの関所について見てみよう。文献上ではまず、立利(たてり)(松阪市)に関所のあったことが確認できる。次いで、先述の高木関と、斎宮の2ヶ所の関所。そして、同じく現在の明和町に位置する金剛坂にも関所があった。写真は、明応5年、北畠氏から「古和借屋」に、関銭から人別1文を知行として与えたものである。
度会郡に入ると、まず、田丸城下に関所のあったことが確認される。明応8年、外宮門前の山田三方神役人らの訴えによると、城のある玉丸山の麓に「数十ヶ所」の「関屋」が設置されたことから、全国からの参宮人の通行の妨げとなっていたとしている。関所の数を「数十ヶ所」とするのはやや大げさな表現ではあろうが、それでも街道の交わる交通の要衝田丸城下には、かなりの数の関所が設けられていたことは明らかであろう。
 さらに、宮川を渡る際にも、銭が徴収されている。明応2年、山田三方との合戦に戦功のあった澤方満に対し、「宮川橋賃」が知行として与えられている。当時、実際に宮川に橋が架けられていたかどうかは不明である。あるいは、『太神宮諸雑事記』に見える「度会川之浮船橋」のように、船を並べた上に板を敷いた、簡易的な「船橋」があった可能性もある。
 小田関を除く各関所の関銭を、斎宮関の人別12文平均とし、田丸関所の数を仮に2ヶ所と計算しても、わずか松阪から内宮に至るまでだけで、100文以上の通行税が必要であったことになる。しかも、これはあくまで現存文献で確認できるものであり、実際はさらに多かった可能性もある。それが往復となれば、なおさらである。中世を旅することは、なんと物入りであったことか。

(県史編さんグループ 小林秀)

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