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猿楽が催され、庭園も−文献に見る田丸城


田丸城遠景

田丸城遠景


 度会郡玉城町田辺の丘陵上に美しい石垣を残す現在の田丸城は、織田信長の子息で北畠氏家督を継承した北畠具(とも)豊(とよ)、後の織田信雄によって、大々的に修築されたものである。
 田丸城が、南北朝時代の初めに、伊勢国に入った北畠親房らにより築城されたことはよく知られているが、意外に、そのことを記した確実な文献は見当たらない。
 1336(延元元・建武3)年5月に湊川の戦いで勝利した足利尊氏は、早くも翌月には入京を果たした。そして、その年の12月に後醍醐天皇が吉野に脱出。我が国を二分した、半世紀にわたる内乱の幕があがった。
 親房らが伊勢国に入った時期は確定されていないが、親房が時を同じくして度会郡吉津(現在の南伊勢町)の武士加藤定有を軍勢催促し、また山田吹上(現在の伊勢市)の光明寺住持恵観に戦勝祈願をさせるなどしており、延元元年の暮れには、伊勢国にいたことは確実であろう。そして、翌2年の7月には、さっそく田丸城で合戦のあったことが、南朝方・北朝方双方の軍忠状に見えていることから、田丸城はそれまでに築城されていたことは確実である。ただし、当初の田丸城は、現在のような石垣を用いた城ではなく、丘陵の斜面を利用して若干の成形を加えた程度のものであったと考えられる。
 その後、田丸城は、飯野郡の神山城(現在の松阪市)などとともに、伊勢国内での南朝方の拠点として機能していたが、1342(興国3・康永元)年、幕府から新たに伊勢守護に任じられた仁木義長の攻撃によって、あえなく落城した。その合戦に北朝方として加わった波多野七郎入道蓮寂の軍忠状によると、田丸城への攻撃はこの年の8月19日から始まり、同29日には坂内城(現在の松阪市)へと転戦していることから、わずか10日あまりで落城したことがわかる。
 次に田丸城が文献上に現れるのは、室町時代に入った1465(寛正6)年。この時、田丸城は外宮門前の自治組織として知られる山田三方の攻撃を受けている。その間を埋める資料を欠くが、南北朝合一後、北畠氏が再び田丸城を確保し、南伊勢支配の拠点としていたものと考えられる。そして、そのころの田丸城主は一族衆の坂内氏であり、従来城主とされてきた玉丸氏の成立は戦国時代末期であることが、近年の研究により明らかにされてきている。
 1557(弘治3)年、田丸城を訪れた山科言(とき)継(つぐ)の日記『言継卿記』によると、田丸城には国司が滞在して猿楽が催されたり、さらには庭園などもあったことが見えており、田丸城が単なる軍事拠点でなかったことも窺い知れる。
 なお、田丸城は文献上「玉丸城」とも表記されるが、従来から中世の時期は「玉丸」のみであるとして、「玉丸城」として紹介されることが常であった。しかし、築城直後に当たる建武4年の田島貞国軍忠状には「田丸合戦」とある。また、1339(延元4・暦応2)年の醍醐寺所司言上状(『醍醐寺文書』)でも「田丸」の文字が使われており、当初から「田丸」・「玉丸」両方の表記が使われていたことがわかる。
 北畠氏の滅亡後、田丸城は、稲葉氏などの城主を経て、紀州藩領に組み込まれていく。

(県史編さんグループ 小林秀)

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