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腕利き作?桃園の三体―鎌倉時代の石仏


(左から)宝樹寺・地蔵菩薩坐像、栄松寺・地蔵菩薩立像、光明寺・地蔵菩薩立像(『三重県の文化財』より)

(左から)宝樹寺・地蔵菩薩坐像、栄松寺・地蔵菩薩立像、光明寺・地蔵菩薩立像(『三重県の文化財』より)


 以前、この欄で県内各地の石造物調査によって近世の経塚が多く判明してきていることを紹介した。三重県の石造物中、圧倒的な数を誇るのは近世期のものであるが、それ以前に遡るものも少なからず残されており、今回は、その中から鎌倉時代の石仏について紹介してみようと思う。
 津市牧町の宝樹寺、川方町の栄松寺、新家(にのみ)町の光明寺の三か寺は、旧久居市の桃園地区にあって、それぞれが隣接する。この三か寺には、鎌倉時代の造像銘を有する石造地蔵菩薩像が伝来しており、しかも、その年号が1314(正和3)年というまったく同時の作である。また、製作年の明らかな石仏では、県内最古のものである。
 宝樹寺の地蔵菩薩は、右手に錫杖を持ち、左手は膝上に置いて宝珠を持つ坐像の姿であらわされる。材質は砂岩で、本体と光背を一材から彫り出し、台座は三段魚鱗葺(ぎょりんぶき)の蓮華座で、蓮華・敷茄子・反花(かえりばな)の三つに分割される。敷茄子には模様が刻まれるなど全体に丁寧な仕上げが施されている。光背の左右に銘文が刻まれ、「正和三年甲?(寅)八月廿九日建立」、「願主 右衛門少尉源幹重」と確認できる。台座を含めた総高が2bあま余りの堂々たる像である。
 栄松寺の地蔵菩薩は立像で、方形の凝灰岩一材を光背の形に彫りくぼめて龕(がん)(厨子)状にし、その中に半肉彫りにあらわされる。像高60a余りの大きさで、像の左右に「正和三年甲?八月十六日造立也」、「願主沙弥淪海」の銘文が刻まれる。現在、境内に他の石造物とともに建てられているが、一時期小川の橋石に使用されていたとも言われ、外側の部分がやや摩滅している。
 光明寺の地蔵菩薩も立像で、光背や台座を含めた像全体を2bほどの砂岩の一材から彫刻する。像高は約1・4bで、他の2体と同様右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿である。光背の右側に「正和三年甲寅八月廿四日 願主沙弥道観」と一行で陰刻される。沙弥道観については、光明寺に残る江戸時代再興の位牌から同寺の住僧と知られ、また1335(建武2)年に亡くなったことが判明する。
 これら三体の地蔵菩薩像は、割合早くから知られていたようで、宝樹寺と光明寺の二体については、1930(昭和5)年に鈴木敏雄が『考古学雑誌』で紹介している。その後、製作年が明確で作風も優れていたことから、1953(昭和28)年に三重県有形文化財(彫刻)に指定され、今日に至っている。
 三体の地蔵菩薩像は距離がごく近いところにあって、しかも製作年が同じということから、そこには何かの命日や供養といった具体的な関係が考えられる。ただ、願主について判明するのは光明寺の沙弥道観だけで、他は地元の人物らしいというだけでよくわからない。
 また、同時期の製作ながら、立像や坐像、龕像という具合に、三体がそれぞれまったく違う形状であらわされている点が非常に興味深い。それに、宝樹寺像は四つの石材を用いているが、他の二体は一材である。材質も宝樹寺と光明寺が砂岩であるのに対して栄松寺は凝灰岩が用いられている。作者は、三体の面貌表現がよく似ていることから同一人と推定されているが、これだけ違う表現ができるということは、手馴れた、かなりの腕前を持った石工と考えられよう。鎌倉時代初期に来日した宋の石工伊(い)行末(ぎょうまつ)の末孫を想定する向きもあるが、近隣に類例もなく確証はない。
 こうした多様な表現のうち、光明寺像の形式は若干変化しながらも後に見受けられるが、宝樹寺像のようなスタイルはあまり見られない。好みの問題もあるかとは思うが、四分割できるような、やや手の込んだものは残りにくかったのかもしれない。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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