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講堂に巨大な仏像安置−白鳳期の夏見廃寺


整備された史跡 夏見廃寺

整備された史跡 夏見廃寺

復元された夏見廃寺セン仏(夏見廃寺展示館で)

復元された夏見廃寺セン仏(夏見廃寺展示館で)


 史跡・夏見(なつみ)廃寺は、近鉄名張駅から約1・5q、青蓮寺川と名張川が合流する付近の右岸に広がる丘陵、通称男山の西南裾に位置する古代寺院跡である。
 地元では古くから知られていたようで、1937(昭和12)年には伊賀史談会幹事岡田栄吉氏らにより瓦や礎石等が確認されている。やがて、戦後まもなくの1946年に京都大学の梅原末治氏らによって発掘調査が実施された。調査は翌年も行われ、東に塔、西に金堂を配した小規模な寺院跡で、金堂は奈良県海龍王寺の西金堂とほぼ同じ大きさの、たいへん小さなものであることが確認された。瓦やセン仏(せんぶつ)が出土して研究者の注目を集めたが、その当時は寺院の由緒もよくわからず、ささやかな一地方寺院としての認識にとどまり、調査報告書も発表されずに終わった。
 この寺院跡が再び注目を浴びるようになるのは、1951年に発表された毛利久氏の論文である。毛利氏は、1015(長和4)年に編さんされた『薬師寺縁起』(醍醐寺本)に書かれている天武(てんむ)天皇周辺の皇族系譜に関する記述の中で、大来(おおくの)皇女(ひめみこ)の条にある「以神亀二年為浄原天皇、建立昌福寺」の「昌福寺」が伊賀国名張郡大字夏見にあったと記されていることから、これが夏見廃寺に当たると考えた。また、建立の目的を浄(きよみ)原(はら)(天武)天皇のためとするのはおそらく表向きで、本当は無実の罪により刑死した弟、大津(おおつの)皇子(みこ)のためであろうと推測した。
 発願者や縁起の解釈等を巡っては、その後もいくつかの説が提唱されているが、いずれにしても万葉集で知られた大津皇子の悲劇を背景にして、夏見廃寺は広く一般に知られるようになった。
 1984(昭和59)年から3か年にわたり、名張市教育委員会による発掘調査が行われ、再びセン仏を中心とする多くの遺物が発見され、また、講堂跡が金堂の右手前方に確認されるなど、伽藍の全容がほぼ明らかになった。
 出土したセン仏は、おおよそ4種類に分類でき、中でも大型のものは、復元すると縦約55センチ、横約54センチの大きさである。これは既知のセン仏では最大のもので、阿弥陀三尊を中心に比丘(びく)像や天部像を配したものと考えられる。
 また、この一部と思われる断片に「甲午年」と判読される陽刻文字が確認され、これは694(持統8)年の干支に当たると考えられている。従来、寺の建立年代については決め手となる史料に乏しかったが、この文字?はそれを考える上で第一級の史料となるだけでなく、セン仏の編年を考える上でも非常に貴重である。これにより、セン仏の制作年は、この「甲午年」と考えられるし、少なくとも寺院の主要部が持統期にほぼ完成していたことは疑いない。
 このほか、講堂跡からは仏像の螺(ら)髪(ほつ)(頭髪の一様式)が出土しており注目される。長さ6pあまり、最大径約4pの、螺髪としては異様な大きさで、全国各地の白鳳寺院跡から出土する螺髪の中でも最大級のものである。おそらく講堂に安置されていた仏像は、坐像でも像高2メートル以上の大きさであったと考えられる。驚くべきことに、実は三重県内においても、近年の調査で伊賀市・見徳寺の如来坐像をはじめこの時期の仏像がいくつか発見・報告されている。夏見廃寺出土の螺髪は、仏像のごく一部分ではあるが、かつてここに巨大な仏像が安置されていたことがわかり、また、その場所が、寺院の中心である金堂ではなく講堂であった点についても興味深い。
 このように、夏見廃寺の出土品は三重県の白鳳時代彫刻の遺品として見逃すことのできない貴重なものである。これらは現在、すぐ近くの資料館に保存展示されており,見学が可能である。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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