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69 三重県の第二次大戦戦死者数


Q 「戦後五十年」の特集を組みたいが、三重県における第二次大戦の戦死者は何人だったのでしょうか。一般県民の空襲による戦死者数を中心に、軍人・軍属の戦死者数を教えてください。

(平成七年八月 県内報道機関)
A 第二次大戦中の米軍機による県下への初空襲は、昭和十七年(一九四二)四月のことですが、これは名古屋市の目標をそれた一機が伊曽島村(現長島町)や四日市市に機銃掃射を加えたもので、被害も多くありませんでした。しかし、二十年になると度々の空襲を受け、数多くの被害者が出るようになりました。例えば、松阪市では二月四日の小規模な空襲で死者八人が出ました(「戦災地図」)。さらに、六月以降は大都市に限られていた市街地の焼夷弾による空襲の目標が中小都市にまで拡大され、三重県内でも桑名・四日市・津・宇治山田市などで激しい空襲を受けました。特に、六月十八日の四日市、七月十七日の桑名、二十四〜二十五日の津・桑名、二十八〜二十九日の津・宇治山田など大きな被害があり、津市では七月だけの空襲による死者が約一、三〇〇人にも達しました。
 このような一般県民の戦死者数について、公的資料としては、戦後まもなく外地からの復員帰還者のために第一復員省が作成した『全国主要都市戦災概況図』(「戦災地図」)と経済安定本部作成の『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』とがあげられます。「戦災地図」は、都市ごとの地図に戦災箇所と空襲月日や被害状況を朱書きしたもので、県下では桑名・四日市・鈴鹿・津・松阪・宇治山田市の六枚があります。ここに記載された空襲被害の死者数は、六市の合計で二、九〇八人です。それに対して、後者の資料中の「都市別被害」では「津市一、八八五人、四日市市八五五人、桑名市四一六人、松阪市一〇人、宇治山田市一〇一人、鈴鹿市二九人、上野市一人、計三、二九七人」と若干多く、都市別戦死者数も「戦災地図」と前後します。また、同資料中の別表「銃後人口の被害」では三重県の総戦死者数三、六〇〇人となっており、都市部以外の被害者もかなり多かったのか、なかなか数値を確定できません。戦争末期の度重なる空襲の中で、死者・傷者・行方不明者あるいは家屋倒壊・火災など混乱をきたし、正確な数はとうてい把握できなかったというのが実情だったようです。
 今、こうした空襲被害や戦争時の様相を詳細に調査し後世に語りつぐために、多くの地域で「空襲を記録する会」とか「戦争を語りつぐ会」などといった自主的な団体が組織されています。資料調査をはじめ、体験者の聞き取りや被災者・被災地の確認等の活動に当たられており、その地道な調査の成果が期待されています。
 なお、三重県出身の軍人・軍属の戦没者についてですが、陸軍三六、九一〇人(外地三五、九六一人内地九四九人)、海軍九、四七三人(外地八、二二八人、内地一、二四五人)の計四六、三八三人というのが通説になっております(昭和三十九年発行『三重県史』)。先に述べた銃後の一般県民の戦死者三、六〇〇人と合わせると、おおむね五〇、〇〇〇人の県民の命が戦争の犠牲となったわけで、再び戦争を起してはならない、起こさせてはならないと痛感するところです。

参考文献

『三重県史』資料編(近代2 政治・行政 II) 昭和六十三年

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