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45 丹波屋伝兵衛


Q 幕末頃、伊勢の古市に丹波屋伝兵衛という人物がいたと言うことですが、どのようなことをした人物ですか。

(平成九年五月 行政機関)
A 古市の丹波屋伝兵衛という人物は、慶応二年(一八六六)に起こった「荒神山の喧嘩」に関係しています。
 当時の高(荒)神山(現鈴鹿市高塚町)付近では、毎年四月上旬に寺や神社の祭礼が続き、大いににぎわい、博打場を開帳すると非常な利益があがる場所でしたが、この付近は藩領や天領が入り交じり、取締りができにくい場所でもありました。そこで、この高神山の縄張りをめぐって、博徒の親分であった神戸の長吉と桑名の穴太徳とが乱闘を起こしました。乱闘は、慶応二年四月八日正午に始まり穴太徳側の敗走で終わりました。ところが、約一ケ月後、次郎長は乱闘で死んだ仁吉らの弔い合戦として博徒らを集め、船で伊勢の神社港に入港し、穴太徳の後援者であった古市の丹波屋伝兵衛に決戦を挑みました。伝兵衛側は、戦意がなく和議を申し込み、次郎長・伝兵衛・穴太徳の三者が古市で和解式を行ったというものです。お尋ねの丹波屋伝兵衛の名は、この高神山の乱闘後の段階で登場してきています。
 野村可通氏の「丹波屋伝兵衛」(『伊勢郷土史草』第六号)によりますと、丹波屋伝兵衛は、文化十四年(一八一七)に伊豆の韮山の多田で生まれ、二十歳を過ぎて伊豆を出ました。各地を転々としたのちに古市へ来て、妓楼半田屋を始めたということです。明治五年(一八七二)に古市・中之町の繁栄策について、古市の有力者が連名で度会県に提出した陳情書には、半田屋こと多田竹之助と署名があることから、丹波屋伝兵衛は多田竹之助にほぼ間違いないと考えられています。そして、八年以降、伊勢の古市を捨て関東の八王子に身を寄せたと思われ、二十三年に行年七十三歳で死んだというように書かれています。
 表向きの妓楼経営では半田屋または多田竹之助という名を使い、別には丹波屋伝兵衛を名乗っていた人物ということになります。

参考文献

『三重県警察史』第一巻 昭和三十九年
『鈴鹿市史』第三巻 平成元年
野村可通「丹波屋伝兵衛」『伊勢郷土史草』第六号 伊勢郷土会 昭和四十九年

現在の古市

現在の古市

宇治古市町全図(明治十七年)

宇治古市町全図(明治十七年)

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