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36 谷川士清の医学


Q 谷川士清は、国学者として有名ですが、一方では町医者として、権力に近寄らず、庶民の治療に専念しつつ、ひたむきに己の学問を完成していった人物であると聞きます。先生の医学とは、どのようなものであったのですか。

(平成八年二月 県内個人)
A 谷川士清は、宝永六年(一七〇九)津城下の八町の医家に生まれ、安永五年(一七七六)に享年六八歳で没しましたが、本居宣長とともに伊勢国の生んだ大国学者の一人です。
 士清は、京都において本草学・医学・儒学・国学のほかに歌道・華道も学び、帰郷して家業の医者となりましたが、家塾「洞津谷川塾」や神道の道場としての「森蔭社」を設けて、多くの門人の教育もしました。
 士清の著したものは、日本書紀を解説した『日本書紀通証』や二万余の古語を集録し説明した我が国最初の辞典『和訓栞』が有名ですが、随筆『鋸屑譚』、一種の考古学書である『勾玉考』、『日本書記通証補正』、大日本史の誤りを一つ一つ指摘した『読大日本史私記』、歌集の『恵露草』など、幅広い分野での著作が医論のほかにあります。
 士清の医論については、享保二十年(一七三五)か、あるいは、それ以前に著した『熱入血室之弁』とか『関格異同弁』があります。この頃の医学は、中世末期以後、中国の宋の儒学の観念的理論に基づく後世医学が主流でしたが、中国の漢や隋の古医を復活し、実験に基づく古方医学が出てきた頃です。『熱入血室之弁』では、男女の生理が別であることや男女の病理には共通したものがあることを論じ、『関格異同弁」では、後世医学家がそれぞれの病症に個々の脈状をあて、その由来を悟らず、いたずらに脈状のみで病症とみなしていることの乱れを論じていますが、『国学者谷川士清の研究』によると、当時の医論が混沌としている中で、古方医学に拠るべきを悟って、自己の所信を述べたものであろうと指摘しています。
 士清の医術は、古方医学の漢方を主流にしながらも、『和訓栞』に多くの蘭語・外語が出ていることや谷川家処方集(仮称)からもうかがわれるように蘭方医学の摂取にも努めており、当時の新薬の研究も進めていたということです。

参考文献

『国学者谷川士清の研究』 湯川弘文社 昭和九年
『谷川士清小伝』 谷川士清顕彰保存会 昭和四十七年

谷川士清旧宅

谷川士清旧宅

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