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35 『三国地誌』と川口維言


Q 伊勢・志摩・伊賀国を扱った『三国地誌』は、江戸時代に著わされた代表的な地誌で、その経緯と編さんに力を尽くした川口維言という人物について知りたいのですが。

(平成七年八月 県内行政機関)
A 『三国地誌』は、伊賀上野「司城」であった藤堂元甫の企画により編さんに着手されたものです。元甫は年少の頃より好学心旺盛で、かねてから領地の整った地誌がないことを慨嘆していたのです。当時、民間の碩学として著名な伊勢鈴鹿の国学者菅生由章を招請し、伊賀の富治林正直や川口維言を編集員とし、元甫自らも執筆に当たりました。一〇余年の精励を経て、宝暦十一年(一七六一)伊勢・志摩国二国が完成しましたが、翌年元甫は死去してしまいます。その後、元福が遺志を継ぎ、宝暦十三年に全巻百一二冊が完成します。
 この完成した『三国地誌』の原本は、一つは藩公に奉られ、もう一つは著者のもとに置かれたとされています。今それらを見ることはできませんが、本書の名声が聞こえ、伝写されたものが幾本かあり、国立国会図書館をはじめいくつかの図書館に写本が所蔵されています。中でも、上野市立図書館のものは藤堂元甫の家に伝わった副本で、「著者の後嗣が将来原稿本の散逸を慮り、これを浄書して副本を作り子孫に遺した品」(『定本 三国地誌』解説)と言われています。また、明治期以降は印刷物としても出版されており、現在も『三国地誌』は三重県域の近世期を研究する上で基礎的な資料となっています。
 お尋ねの川口維言については、伊賀上野の人で、藤堂玄蕃良次の家臣である辻景路の二男に生まれ、その後川口家の養子となります。号は竹人又は寓子で、通称は庄太夫といいます。菩提寺である念仏寺(上野市寺町)の過去帳によれば、明和元年(一七六四)十一月十八日の項に「寂川寓子居士 川口庄太夫 父 七十二才」とあることから、生まれたのは元禄五年(一六九二)となります。采女(元甫)家の家臣で、史学に通じ、兄辻萩子とともに服部土芳門下の俊才であったと伝えられています。
 『三国地誌』の編さんの重責を果たしたほか、宝暦十二年には『芭蕉翁全伝』を著しています。この『芭蕉翁全伝』は、松尾芭蕉の伝記のうちでも早い時期に刊行され、今日でも信頼度の高い一冊です。元甫の発案を受けた維言が、芭蕉の系図・発句・書簡などを元甫所蔵の諸本や兄萩子・師土芳の口伝を参考にまとめたものと言われています。
 また、蕉門の女流俳人友田梢風(法名、智周)の俳諧句文集『智周発句集』に跋文を記したり、俳諧の手ほどきを受けた土芳から芭蕉遺愛の水鶏笛・木魚を譲られて、愛玩したこともあるようです。

参考文献

豊岡益人「川口維言先生の墓」『伊賀郷土史研究 第九輯』
伊賀郷土史研究会 昭和五十九年
『定本三国地誌 (上)・(下)』 上野史古文献刊行会翻刻 昭和六十二年
今 栄蔵『芭蕉伝記の諸問題』 新典社 平成四年

川口維言の墓(念仏寺)

川口維言の墓(念仏寺)

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