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32 津藩の名産、鋳物


Q 三重県で鋳物と言えば、桑名と言われていますが、かつて津の鋳物も有名であったと聞き、どのような様子だったのか、興味があります。教えてください。

(平成八年七月 県内個人)
A 鋳物については、江戸時代前期の地誌『勢陽雑記』の安濃郡「津城」の項に「津城下土産の物鋳物鐘・釜・鍋鋳物は津の市中かなや町といふ所、其の職事専らなり」と書かれ、江戸時代の津藩の名産品の一つとして紹介されています。
 津藩の鋳物師の祖とされている辻越後守家種は、秀吉の命による手取釜模造の件や京都方広寺の梵鐘鋳造の脇棟梁を務めるなど、全国的にも知られた名工でした。彼の住んでいた鋳物師屋敷の周辺は、慶長十三年(一六一〇)藤堂高虎が津に入封後、「釜屋町」と呼ばれるようになったようです。その子、但馬吉種と越後重種も父のあとを継ぎ鋳物師となり、藩主高次の命により黔薪の釜と蓮葉の釜を造り、高次はこれを将軍に献上したといいます。
 『津市史』第二巻収録の元禄十四年(一七〇一)の「乍恐口上書」(釜屋町の戸数増加により、出火の恐れのある鋳物師屋敷の移転命令に対する費用の扶助願い)によれば、差出し人が「釜屋町鋳物師越後・弥四郎・喜六・清兵衛」で、当時釜屋町には四家の鋳物師がいたことがわかります。この四家の鋳物師のうち、越後は重種の子孫、弥四郎は吉種の孫に弥太郎直種という鋳物師がおり(『津市史』第三巻)、やはり辻家の系統と思われます。辻家によって鋳造された梵鐘などは多く残されていますが、江戸時代の後期には辻家が衰退し、奥山家がこれに代わりました。
 奥山家の始祖は、筑前国の鋳物師でありましたが、その子孫清兵衛が津に来たと伝えられています。先の「口上書」の差出し人の一人です。この奥山家で有名となったのが、奥山金吾です。金吾は、嘉永二年(一八四九)に津藩の命により大砲も鋳造していますが、彼の造った茶の湯釜は、最も名高いものとして非常に珍重されていました。
 このように、辻家や奥山家などで造られた釜が「伊勢釜」と言われて、全国的に賞用されました。さらに、奄芸郡中山村(現津市)にも藤堂家の御鋳物師として活躍した安保家もありましたが、伝統的な津の鋳物も明治時代には段々と廃れてしまいました。
 それでも、明治十年(一八七七)には、京都の銅器業・平井安兵衛が津の骨董商・若林吉兵衛の後援で開業しました。安兵衛・吉兵衛の亡きあとも、後継者のはやという婦人が事業を継続し「釜吉」と称して、貿易品を製造して伊勢銅器という名を得るまでになりました。また、明治十七年には、黄地直次郎が滋賀県より来て、火鉢や仏具類を製造しました。しかし、戦前の輸出途絶に加えて釜吉も黄地も後継者がなく、第二次世界大戦後は全くその面影をなくしてしまいました。

参考文献

『津市史』第二・三・四巻 昭和三十五・三十六・四十年
山中為綱『勢陽雑記』 三重県郷土資料刊行会翻刻 昭和四十三年
福本桂太良『三重の梵鐘』津・安芸編 昭和六十二年

市杵島神社蔵 湯立釜(阿保氏鋳造)写真 津市教育委員会提供

市杵島神社蔵 湯立釜(阿保氏鋳造)写真 津市教育委員会提供

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