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30 古田井と新井


Q 嬉野町や三雲町では、雲出川支流中村川の古田井からの用水で灌漑するところも多いのですが、古田井の設置時期はいつ頃ですか。また、雲出川本流にも多くの井堰がありますが、特に古田井の灌漑地域に関係の深い新井について、教えてください。

(平成七年十月 県内個人)
A 『嬉野町史』には、旧中川村役場に残されていた慶安元年(一六四八)の文書が引用されてます。その文書は、古田井の水利年貢の負担割合や破損の場合の普請などの取決めを津藩と紀州藩の役人が花押・捺印のもとに行い、それぞれ領地の村への達しを約束するのものですが、「古田新池并井溝」とあり、古田井はその頃に完成したと考えられます。この「古田新池」は、水を必要とする下流域の村々からは随分離れた所に築造された溜池で、古田井の構造は単に川の水を堰き止めるという他の井堰とは少し異なっていました。すなわち、現在の嬉野町中郷地区大字宮野の古田に池を築いて貯水し、これを引水して釜生田より豊地地区に水路を開さくして中川地区の西部字高畑まで流し、中村川にいったん注水し、それを井堰により取水するというものです。
 この古田井の灌漑水路は大きく二通りあり、一つは黒田・野田・見永・新屋庄村(現嬉野町)の四ケ村に四分を分流し、もう一つは須川・森・肥留・小村・中林・曽原・中道・小津・舞出・甚目村(現三雲町)の一〇ケ村に六分を流しました。これは元禄十一年(一六九八)の文書、後述する新井の開さくが許可されたのちの文書で定められたもので、前述の慶安元年の文書では、星合や笠松村(現三雲町)も入っており、当初は星合・笠松村を含めて合計一六ケ村に灌漑されていたようです。
 このように、一六ケ村という広大な田畑を潤すには古田井だけでは追いつかず、雲出川の本流にもっと大規模な井堰を設けることが計画されました。それが紀州藩士の大畑才蔵が設計管理した新井です。『南紀徳川史』「郡制第五」には「一 元禄十一寅年四月 勢州一志郡新井工事完成す、一志郡甚目・須川・中林・曽原・小村・肥留三ケ村・中道・小津・星合・笠松・黒田・野田・見永・新屋庄等の拾六ケ村灌漑欠乏歳々旱損に罹るを以、雲出川より導水新渠開鑿を謀り、去年九月大畑才蔵(御勘定人並)出張、測量をなし工事予算を遂げ、本年二月十一日より起工、四月十六日に至て竣工を告く」とあります。小木戸橋の近く、現一志町其村に井堰をつくり、宮古村(現嬉野町)前の中村川までの水路を整備し、古田井同様、中村川へ落とし、そこからは旧来の星合井の井溝を拡張し、村々への灌漑用水としました。この新井工事は、日数六五日間、延人数二万四二三〇人がかかった大工事で、多くの経費も必要でしたが、これによって一六ケ村内の二八二町の水田が永く干ばつから免れるようになり、畑地から水田となったもの六、七〇町、新田開拓が一〇町歩に及ぶと見込まれました。そして、成果の多くあがったこの工事は、土木家大畑才蔵の出世作と言われるようになりました。
 工事にかかった人手や経費は、紀州藩が約七割・津藩約三割で負担したようですが、江戸時代、各藩は財政を豊かにするための一方策として、新田開発と土地改良に力を注ぎました。農業には用水の確保が重要で、溜池の造成・河川の井堰設置・水路開さく等、補助を出し工事をさせたり、直営で工事したり、時には関係各藩が共同して工事をするなどして、灌漑用水の確保を図っていたことがよくわかります。

参考文献

『一志郡史』上巻 一志郡町村会 昭和三十年
『嬉野町史』 昭和五十六年
『一志町史』上巻 昭和五十六年
『南紀徳川史』第十冊 清文堂出版 平成二年
『大畑才蔵』 大畑才蔵全集編さん委員会 平成五年

古田井 新井

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