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24 県内の一里塚


Q 一里塚とは、江戸時代初期、幕府が江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に榎や松を植えた塚を街道の両脇にほぼ一里ごとに築かせたものです。旅人にとっては、里程・乗り賃の支払いの目安あるいは木陰の憩いの場所となりました。県内を通っていた東海道にあったということは知っているのですが、ほかの街道にも築かれていたのですか。

(平成八年一月 県内個人)
A 県内域の旧東海道は、現桑名市の七里の渡し場から関町の鈴鹿峠までです。その間、一里塚は文献によれば全部で一二ケ所ありましたが、そのほとんどが自然崩壊とか取り壊されたりして残っていません。唯一現存しているのが亀山市野村の一里塚で、現在、国指定の史跡となっています。野村の一里塚は、江戸日本橋から一〇六里一二町、京都三条大橋から一七里三二町のところにあります。江戸時代後期にまとめられた『東海道宿村大概帳』(逓信総合博物館所蔵)には「壱里塚 壱ケ所 木立 左榎右椋」と書かれていますが、南側の榎の植えられた塚は大正三年(一九一四)頃破壊されてしまい、片側だけが残っています。
 県内のほかの街道、例えば伊勢街道・伊勢別街道・大和街道なども、絵図に「古一里塚」と記されたり、一里塚と思われる記号が見られたりします。また、和歌山街道(川俣街道)では「此間一里塚御座候」といった亨和四年(一八〇四)の「調書」も確認できます。そうしたことから、塚の規模や築造者はともかく、一里塚を築いた街道はほかにもあったようですが、現在は全くと言ってよいほどその姿をとどめていません。
 ただ、熊野街道にはいくつか残っており、現在史跡として指定されたものに大内山村一・海山町一・尾鷲市二・熊野市二の計六件(県指定三・市町村指定三)があります。中でも完存しているものは尾鷲市の八鬼山桜茶屋一里塚です。八鬼山中腹の街道両脇に径六m・高さ二mほどの石垣を積んで盛土し、東側に松、西側に山桜(現在は二代目)を植えたものです。
 熊野街道は現在の伊勢市から和歌山市間の道路で当時の紀州藩領だけを通っており、藩は熊野往還道路として五街道に準じるものとして整備しました。一里塚の設置については、尾鷲組大庄屋文書の中の「享保元年 御国巡衆御越ニ付御状留 申八月」という簿冊に巡見使に対しての想定問答の書き付けがあり、そこに「一 道法壱里塚は五年已前御改出来候壱里塚を用ひ」という記録があります。このことから、享保元年(一七一七)の五年前の正徳二年(一七一二)には既に整備されたことがわかります。その後、時々、藩は一里塚の検分や整備をさせたりしていますが、江戸時代の後半には荒廃していったようです。
 さらに、明治九年(一八七六)十月には内務卿から府県宛に「各街道一里塚ノ儀、里程測定標杭建設既済ノ地方ニ限リ、古墳旧跡ノ類ヲ其儘一里塚ニ相用或ハ大樹生立往還並木ニ連接シ又ハ目標等ニ相成、自然道路ノ便利ヲナスモノ等ヲ除クノ外、耕地ヲ翳陰スルカ如キ有害無益ノ塚丘ハ総テ廃毀シ(後略)」という達しが出され、三重県も各区・戸長宛に有害無益の塚丘を調べて報告するよう命令しています。すなわち、この達しによって一層一里塚の廃止が進んでいったと考えられます。

参考文献

『尾鷲市史』下 昭和四十六年
三重県教育委員会『歴史の道調査報告書 I 熊野街道』 昭和五十六年
『海山町史』 昭和五十九年
三重県教育委員会『歴史の道調査報告書 VI 東海道』 昭和六十二年

野村の一里

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