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19 県外の藤堂藩領と名張藤堂家


Q 江戸時代に津や伊賀国を領有した藤堂藩は、現在の三重県以外にも領地を持っていましたか。もし、あったのならどこにどれだけあったのですか。また、名張にも藤堂家がありましたが、津の藤堂家とどのような関係があったのでしょうか。

(平成七年九月 県外個人)
A 江戸時代の三重県域は、長島藩・桑名藩・菰野藩・神戸藩・亀山藩・津藩・紀州藩・鳥羽藩、そのほか小藩や幕領・神宮領が複雑に交じりあって領地を支配していました。
 津(藤堂)藩は、寛永十一年(一六三四)の「徳川家光知行宛行状写」(『宗国史』所収)によれば「都合三拾弐万三千九百五十石余」を領有していました。その内訳は、二〇石ばかり合計と差がありますが、伊賀国一〇万五四〇石と伊勢国一五万四一〇石(安濃郡七万石・一志郡三万六五七三石・奄芸郡一万八五八二石・鈴鹿郡二万四四〇八石・三重郡八四七石)のほか、山城国相楽郡一万二三六七石六斗余、大和国添上・山辺・十市郡三万七六一二石四斗余、下総国三〇〇〇石、伊予国越智郡で二万石と、三重県域外にも領地を持っていました。
 中でも、山城・大和の領地、すなわち「城和領」は、元和三年(一六一七)に加増された南勢田丸城付五万石の替地でした。元和五年徳川頼宣の和歌山転封に伴って伊勢国の多くが紀州領とされたため、山城・大和のうちで五万石が与えられたのです。
 また、下総国の領地も田丸領と同じく元和三年に与えられたもので、香取郡の一四ケ村を支配していました。
 次に、伊予国越智郡の二万石ですが、これは藤堂高虎の前封地に関係する領地で、高虎の養子高吉に宛行われたものでした。高虎が伊賀・伊勢国に移封したときも、高吉は伊予国今治城に残り、この二万石を領していました。高吉は、もと織田信長の家臣の丹羽長秀の三男で、豊臣秀吉の命によって天正十六年(一五八八)に高虎の養子になったのです。そして、寛永十二年、伊予国越智郡の二万石が伊勢国飯野・多気郡と知行替えとなったため、翌十三年、高吉は津藤堂家の一門として伊賀国名張に屋敷地を与えられました。これが名張藤堂家の始まりで、以後明治四年(一八七一)まで十一代にわたって名張に屋敷を構えました。
 なお、津藩の領地変更は、わずかですが、その後も行われました。寛文四年(一六六四)の「目録」(『宗国史』所収)を見ますと、山城国相楽郡の一部は大和国城(式)上郡と交換され、城和領は山城国一郡一六村、大和国四郡一一〇村となっています。同じく、伊勢国でも鈴鹿郡から三重・河曲郡の村に領地が移されたりしています。さらに、寛文九年には五万石が分領され、久居藩が立藩しました。

参考文献

『津市史』第一巻 昭和三十四年
『藩史大事典』第四巻 雄山閣出版 昭和六十四年
『名張藤堂家歴史資料目録』名張市教育委員会、平成四年

名張藤堂家邸

名張藤堂家邸

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