斎藤拙堂
藤堂藩(津藩)有造館の第三代督学で漢学者の齋藤拙堂(さいとうせつどう)は、晩年、津城下の北の茶臼山に山荘を建て隠退しますが、長州の吉田松陰や土佐の吉田東洋、肥前の楠井小楠などの多くの学者や文人らと交流は、続けて時局を語り、酒を酌み交わす自適な生活を送りつつも、時には藩主高猷も意見を求めて拙堂を訪ねました。齋藤拙堂は、奈良県 の梅の名所「月ヶ瀬」を紹介した紀行文『月瀬記勝』の刊行をしました。これは、ガイドブックの先駆けとなり、明治中頃まで多くの人に読み継がれ、月ヶ瀬は梅の季節には観光客が押し寄せる名所になりました。


谷川士清
津生まれの谷川士清 (たにがわことすが1709~1776)は、本居宣長と並び称される国学者です。谷川士清の業績としては、日本で最初の本格的な五十音順にならべられた国語辞典「和訓栞」(全93巻)、日本書紀の注釈書「日本書紀通証」(全35巻)の刊行などが挙げられます。谷川士清は、地域の人々から信頼を受けた医者でした。その傍ら学問にも打ち込み、『日本書紀』全巻にわかりやすい説明を加えていく研究を20数年間続け、『日本書紀通証』35巻を著しました。頼山陽の祖父頼惟清や宇佐八幡宮の宮司など全国に門人がいました。



谷川士清は、『日本書紀』の注釈を進める中で、言葉の意味や使い方なども研究を行い、それらを五十音順に配列分類して集大成した国語辞典『和訓栞』93巻を著しました。本格的な五十音の国語辞典としてはわが国最初のものになります。
谷川士清の著した五十音順の国語辞典『和訓栞』は、江戸時代における類書をはるかに超える約21000語が収録されており、後に国語辞典をつくろうとする人や日本語を勉強しようとする人の参考になったといわれます。


谷川士清の生家は津市内にあり、「谷川士清旧宅」(国指定史跡)として一般に公開されています。伊賀街道に面した場所にあり、谷川家は代々医者をしていました。昭和52(1977)~54(1979)年にかけて解体復原工事が行われ、現在、一般に公開されています。
谷川士清は、多くの研究を行いました。研究の中で、後世に自分の説が誤って伝わることがないようにと、「反古塚」(市指定史跡)を建てて、これまで自分が書いて不用になったメモや下書き(反古)を埋めたといわれています。




西嶋八兵衛
西島八兵衛は、藤堂高虎の家臣で、水利・灌漑の面から高虎を支えた人物です。小波田新田(名張市)や雲出井(くもずゆ)用水路(津市)の開発を行い、津藩縁戚の讃岐生駒藩でも満濃池(高松市)等の修築を行うなど後世に恩恵をもたらす業績を残しています。藤堂高虎に仕えた西島八兵衛は、城和奉行(奈良県)として水利・灌漑の業績をあげ、幕府に乞われ、晩年は伊賀に隠居しました。死後、雲出井用水路の近隣の住民は八兵衛の功績を称え、祭神を八兵衛とする水分(みくまり)神社を建立しています。






堀江鍬次郎
堀江鍬次郎は、天保2(1831)年に、津藩士の次男として江戸で生まれました。安政2(1855)年に西洋砲術を学ぶと、安政4(1857)年には長崎へ渡って蘭学や化学(当時は「舎密術(せいみじゅつ)」)を海軍伝習所で学び、この地で後に「日本写真の祖」と呼ばれる上野彦馬と出会い、写真技術に興味を持ちました。堀江鍬次郎は、安政6(1859)年に、フランス人写真家ロシエから最新の写真技術を学び、藩主藤堂高融の支援で写真機と薬品を購入し、安政7(1860)年には江戸の津藩邸で藩主や多くの人物を撮影し、日本初期の写真文化を築きました。(『舎蜜局必携』復刻版:四天王寺所蔵)



堀江鍬次郎は、津に戻って藩校で蘭学と化学を教え、上野彦馬と共に化学書『舎密(せいみ)局必携』を執筆。この書には「撮形術(写真術)」の項目も含まれており、日本の写真技術の記録として貴重なものとなっています。(『舎蜜局必携』復刻版:四天王寺所蔵)
堀江鍬次郎は、慶応2(1866)年、病により36歳でなくなります。彼の墓は津市の四天王寺にあり、毎年6月1日「写真の日」には、三重県カメラ商組合によって法要が営まれています。この伝統は50年以上続いており、彼の功績は地元三重県で大切にされています。
堀江鍬次郎は、慶応2(1866)年、病により36歳でなくなります。彼の墓は津市の四天王寺にあり、毎年6月1日「写真の日」には、三重県カメラ商組合によって法要が営まれています。この伝統は50年以上続いており、彼の功績は地元三重県で大切にされています。



