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令和08年05月19日

真宗高田派専修寺(高田本山)

真宗高田派本山 専修寺(高田本山)

 津市にある専修寺は、真宗高田派の大本山です。広い寺院には、大きな御影堂と如来堂があり、いずれも国宝です。また、これらの建物の裏には、専修寺庭園「雲幽園(うんゆうえん)」(県史跡・名勝)や多くの国宝・重要文化財の宝物を保管・展示する宝物殿「燈炬殿」(とうこでん)があります。


 真宗高田派本山専修寺は、新たに東海北陸地方の布教活動の中心とするため高田派第10世真慧上人が文明年間(1469~1487)に伊勢に無量寿院を創建したのが始まりです。
その後、下野国高田(栃木県)の専修寺が大永6年(1526)頃に兵火によって焼失したため、本山機能が伊勢に移動し、数多くある親鸞聖人の真筆類なども移ってきました。


 専修寺は、正保2(1645)年に焼失しました。現在ある国宝の御影堂は、寛文6(1666)年に再建されたものです。内々陣を除き725畳の広さで、三重県最大、国内でも有数の巨大木造建造物です。
 御影堂が寛文6(1666)年に再建されたのに続き、山門が瓦の刻銘その他の資料から、宝永元年(1704)頃に完成したと考えられています。寛延元(1748)年には、国宝の如来堂、天保15(1844)年に唐門が再建されていきました。

 


 専修寺は、津藩藩主藤堂家と懇意にしており、藤堂高虎長女糸姫(高松院)が高田派第15世堯朝上人の室になり、万治元(1658)年には第2代藩主の藤堂高次の四女いと姫が高田派第16世堯円上人に輿入れし、血縁関係を結んでいます。そういった縁もあり藤堂家からは、専修寺西側の土地を寄進されています。

展示物


 専修寺の鐘楼は、藤堂高虎長女糸姫(高松院)が堯朝上人の7回忌である慶安5(1652)年に建造されました。鐘の銘文には「伊賀侍従藤堂大学頭藤原高次妹」「願主高松院治鋳」とあります。解体修理で基壇の場所が当時から変わってないことが確認されています。



 


 専修寺の御影堂は、津藩主藤堂家の庇護のもと、約3万坪の土地の寄進をうけ、寛文6(1666)年に再建されました。現存する近世建築において国内屈指の規模を有します。壮大な堂内は、大空間になっており、多彩な装飾を施した荘厳な内陣など各所に見所があります。
 御影堂の再建の際は、江戸幕府から日光東照宮建立に携わった職人7人が派遣されたといわれています。極彩色の梁の装飾など関東風の寺院建築の特徴があり、この地方には稀な建築様式になっています。


 専修寺の如来堂は、御影堂の西に位置し、檀信徒からの寄進により建立され、発願から25年後の延享元(1744)年に上棟されました。御影堂と並び建ち、両堂により壮大な伽藍の中枢をなしています。御影堂とともに国宝になっています。
 如来堂は、建築面積は御影堂に比べるとおよそ半分程ですが屋根を二層として、外観は二階建てであるかのように見せ、棟の高さを御影堂とほぼ等しくしています。これは、本堂としての威容を示すためだと考えられています。


 専修寺の如来堂の外観は、禅宗様の一重裳階付形式の仏堂として我が国で現存最大級の規模です。また、室内は精緻な彫刻が施された組物や欄間、金箔で華やかに装飾されており、荘厳な空間をつくりだしています。
 如来堂の欄間は1枚の板で作成されています。極楽では、常に美しい音楽がながれているということを表現するため、迦陵頻伽(かりょうびんが)といわれる美しく唄う鳥、琴や笙などの楽器を、漆喰などを使って立体的に彫刻を施しています。

 


 専修寺の御影堂と如来堂を結ぶ通天とよばれる橋があります。全長31.86m 幅6.79m 唐破風造 本瓦葺で、御堂の縁側にかかっているため高床とし、板張りで、柱間はすべて吹抜けになっています。柱の外側に床と同じ高さの縁側をとりつけ、その端に高欄を置いています。
 通天橋は、屋根の両端に唐破風が付いており、天井のあたりには細部に彫物を多用し、同一部材でも彫物の図柄や形に変化を持たせています。享和2(1802)年に渡り初めが行われたといいます。重要文化財です。

 
 専修寺の山門は、御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたります。すぐ前には道を隔てて石畳が伸び、その途中にある石橋や釘抜門や寺院などとともに、古い町並みと一体になって本山の門前にふさわしい雰囲気をつくっています。
 山門は、2階建で、間口20m、奥行9m、高さ15.5mの大きな門です。元禄6(1693)年頃から建築に取り掛かり宝永元年(1704)頃に完成したものと思われています。2階内部には、釈迦三尊像を安置しています。重要文化財です。


 江戸時代には、「一生に一度は伊勢参り」と言われるほど伊勢参宮の憧れは強く、京都から伊勢までの参宮道中の名所を記した『伊勢参宮名所図会』には、専修寺の広い境内の様子や参詣に訪れる人々の姿が詳しく描かれています。(『伊勢参宮名所図会』写真:国文学研究所所蔵)
 
 

  
 専修寺の御影堂と如来堂の裏にある専修寺庭園「雲幽園(うんゆうえん)」(県史跡・名勝)は、南北に広がる池泉回遊式庭園で池の中には沖島が配置されています。また、千利休の息子、道安と織田信長の弟、有楽斎の合作と伝わる茶室「安楽庵」があります。
 「雲幽園」は、10,750㎡(3,250坪)の庭園です。池を巡って歩く廻遊式庭園で、入口から右へ、竹籔の中の間の苔むした道を進むと、茅葺の門があります。「雀の御宿」へ来たような雰囲気になり、そこを進むと茶室「安楽庵」がみえてきます。(通常は非公開)  

 


 専修寺の太鼓門は国の重要文化財です。境内の東辺にあり、平屋建ての長屋門の上に三層の櫓を乗せたものです。最上階に大太鼓(津市指定有形民俗文化財)を吊っています。かつては、「時の太鼓」で時を人々に知らせていました。
 太鼓門は、宝暦・寛政年間の絵図には単層の櫓が描かれており、当初は現在の形ではありませんでした。文久元(1861)年に、親鸞聖人600年忌法要の記念事業の一環で太鼓門を三層に嵩上げました。


 専修寺の唐門は、如来堂の前にあり、天保15(1844)年に建てられ、切妻造、檜皮葺の屋根、正面と背後の屋根に唐破風が設けられています。貫や小壁、欄間、扉など門の細部には菊、獅子、力士など精緻な彫刻が随所に施され、江戸時代末期の社寺建築の特徴が見られます。重要文化財です。

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一身田寺内町

 津市にある一身田寺内町は、高田本山専修寺を中心にして発展し、約500m四方の環濠で囲まれた町で、江戸時代は3か所の橋を渡ってしか入れない場所でした。現在、環濠がほぼ完全な形で残されています。多くの文化財や歴史的な町並みを現在に伝えています。
 一身田寺内町がいつごろ成立したのかは明らかではありませんが、天正20(1592)年の一御田神社の棟札に「寺内」という呼び方がみられることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたものと考えられます。

 

 
 16世紀の中頃までは、一身田寺内町は現在の区域の半分足らずの大きさでしたが、万治元(1658)年に津藩の二代藩主である藤堂高次の四女いと姫が専修寺の門主に輿入れするにあたり、当時の専修寺の西側の土地を寄進したことによって、現在の寺内町の形となりました。
 明治時代になり、宗教団体が境内と墓地以外の寺領を持ち統治することを禁じる法律が制定されたため、専修寺も多くの寺領を失いました。そして、明治7(1874)年には、赤門・黒門・桜門の三つの門が全て売りに出されるなど、寺内町も大きく変わっていきました。

 
 一身田寺内町は、専修寺の末寺がおかれたほか、寺に仕える人や商売をする人などが住み、家の間口によって専修寺に税を納めていたといわれています。資料館の「一身田寺内町の館」では、江戸時代の寺内町の模型や当時の資料を展示し紹介をしています。
 「一身田寺内町の館」は、諸説ありますが、藤堂高虎の娘糸姫(高松院)の位牌を祀った高松寺があった場所といわれています。資料館建設前からある松は寺のなごりと伝わります。

 


 一身田寺内町では、鉄道の利便性もよかったためか、戦前は昔ながらの街並みを利用して多くの映画のロケ地に利用され、当時のスターが滞在し撮影していました。一時は途絶えていましたが、最近では、専修寺を中心に映画などのロケ地として、使われています。
 一身田寺内町は、今もなお、専修寺を始めとする多くの寺院や古い民家などのたたずまいが、往時の面影を残しています。寺内町は多くの参詣客が迎えて賑わう町として、今も専修寺との関係は引き継がれています。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 環境生活部 文化振興課 拠点連携班 〒514-8570 
津市広明町13番地
電話番号:059-224-2233 
ファクス番号:059-224-2408 
メールアドレス:bunka@pref.mie.lg.jp

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