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令和08年05月19日

津城跡

津城

 津市にある津城跡は、織田信包 (おだのぶかね 信長の弟)が天正8(1580)年に安濃津城を築城し、その城を藤堂高虎が大規模に改修を行って、津城として完成させました。現在は、石垣と内堀の一部を残すのみで当時の建物はなく、お城公園となっています。
 


 津城のもととなった安濃津城を築城した織田信包(おだのぶかね)は、織田信長の弟です。母の土田御前(とだごぜん)、妹のお市の方、姪の茶々、初、江を引き取り、この津城もしくは伊勢上野城 (現在の津市河芸町)で保護をしていたともいわれています。
藤堂高虎は、津城には、慶長13(1608)年に伊予今治より、伊勢・伊賀22万石の大名として入城しました。その後、高虎は城の大改修に着手し、輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備しました。以後、津城は、明治維新まで藤堂家の居城でした。

 
 藤堂高虎は、外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する扱いを受けた人物でした。築城名人と称され層塔式天守を考案し、江戸城築城にも貢献したといわれています。家康の死後、秀忠、家光と三代につかえ、寛永7(1630)年に没しています。現在、津城跡の本丸のお城公園には、騎乗した高虎像があります。
 明治に入り、廃城令により建物は取り壊され、津城跡は陸軍省の管理となり、その後、藤堂家に払い下げられました。二之丸の多くが貸宅地となり、土堤などを崩し外堀や内堀の一部が埋められ、また、三重県尋常師範学校、安濃津地方裁判所が内堀沿いに建てられました。

津城の石垣

 津城は築城の名手であった藤堂高虎が築城の粋を集めて築いた城です。津城の石垣は、多くは高虎時代のもので、算木積み、矢穴、刻印などが見られ、打込みはぎや切込みはぎです。一部には高虎以前の織田時代や富田時代の石垣と思われる部分(野面積み)が残っています。
 


 現在の津城跡で当時の面影をのこすのは、本丸、西之丸、内堀の一部のみで、本丸には模擬櫓が新たに作られ、お城公園となっています。二之丸跡には、津市役所やお城西公園、津合同庁舎などが建っています。桜の季節には、多くの市民が訪れます。


 津城跡から北東に100mほど離れた場所に百五銀行丸之内本部のビルが建っています。ビルの建替え工事の発掘調査により、内堀と南北方向の石垣が25mにわたって確認され、本丸までの内堀幅は約85mで、石垣の高さは2.5m以上あったことが確認されました。
 発掘された津城の石垣の大半は野面積で、後に改修されたものであることがわかりました。発掘調査で確認されたもののうち、百五銀行の横に最も残りの良い約5m分が解体・復元整備されています。

有造館

 文政3(1820)年3月、津藩主藤堂高兌(たかさわ)が津城二之丸に藩校として「有造館」を建て、藩士の子弟を教育しました。その跡は碑が残るだけですが、津城西之丸跡のお城公園には、その門であった入徳門が戦災を免れて移築されています。
 有造館は、藩財政が危機に瀕し、また藩士の気力の減退などを目の当たりした津藩主藤堂高兌が、大藩でありながら藩校を持たなかった結果と思い、藩士の教育こそ根本であると考えたことで建てられた藩校だといわれています。
 


 藤堂藩の藩校、有造館は、優れた学者が集められ、貴重な書籍の刊行を進めるなど充実した教育環境が整っていました。こうしたことから全国300以上の藩の中で、津藩は文藩(教育・学問に優れた藩)とも呼ばれました。

津城 外堀跡

 津城は2本の川(安濃川と岩田川)を天然の堀として利用していました。この川を結ぶ大規模な堀川を藤堂高虎は考えていました。しかし、豊臣氏が滅んだことで、大きな戦いはなくなり、堀川の掘削計画は途中で終わりました。現在、東丸の内にその名残があります。

 

本ページに関する問い合わせ先

三重県 環境生活部 文化振興課 拠点連携班 〒514-8570 
津市広明町13番地
電話番号:059-224-2233 
ファクス番号:059-224-2408 
メールアドレス:bunka@pref.mie.lg.jp

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