海女漁の歴史
海女漁はいつ頃から行われていたのでしょう。縄文時代から古墳時代の遺跡である鳥羽市浦村の白浜遺跡からは、アワビの貝殻などが出土しています。アワビは、海に潜らないと採れないので、素潜り漁があったのではないかと考えられています。弥生時代の貝塚からは、大きなアワビ貝や、それを採るために使ったと思われる、鹿の角を加工した道具が発見されていることから、男女の別はわからないにしても、海女漁は古代から受け継がれている漁法であると研究者の指摘があります。
海の博物館所蔵


奈良県にある平城京跡の発掘現場で見つかった荷札は、奈良時代の西暦745年に現在の志摩市大王町波切からアワビが貢納品として、平城京まで運ばれたことを示しています。また、『万葉集』では、大伴家持や山上憶良などが、海女漁の様子を歌に詠んでいます。
清少納言の『枕草子』には、「海女のかづきしに入るは憂きわざなり。腰につけたる緒の絶えもしなば、いかにせんとならん。」とあり、海女が海に潜っていることについて、船と自分の腰を結んでいる縄が切れたらどうするのか、と書かれています。平安時代の海女に対する貴族の認識が窺えます。
江戸時代の浮世絵にも海女が描かれています。二見浦にある夫婦岩の付近で海女漁をしている浮世絵があり、伊勢志摩周辺の海女は全国的にも知られていたと思われます。しかし、実際の二見浦は砂浜でアワビなどは生息せず、海女はいないところでした。
明治16年(1883)の『三重県水産図解』では、その当時の三重県における漁業の様子や魚介類などが詳細に掲載されています。その中には、海女漁や海女の様子が描かれています。浮世絵とは違い、当時の海女の本当の姿が見られる貴重な資料です。
志摩の海女の写真を載せた絵葉書は、大正時代から昭和時代の始めにかけて数多く販売されました。磯での潜水作業や、漁の後に浜で暖をとる風景、海女にポーズをとらせた写真等があり、海女と言えば白い磯着のイメージが定着している背景にはこれらの絵葉書の影響も考えられます。
写真:MieMu図録より


清少納言の『枕草子』には、「海女のかづきしに入るは憂きわざなり。腰につけたる緒の絶えもしなば、いかにせんとならん。」とあり、海女が海に潜っていることについて、船と自分の腰を結んでいる縄が切れたらどうするのか、と書かれています。平安時代の海女に対する貴族の認識が窺えます。
写真:MieMu図録より

江戸時代の浮世絵にも海女が描かれています。二見浦にある夫婦岩の付近で海女漁をしている浮世絵があり、伊勢志摩周辺の海女は全国的にも知られていたと思われます。しかし、実際の二見浦は砂浜でアワビなどは生息せず、海女はいないところでした。
MieMu所蔵


明治16年(1883)の『三重県水産図解』では、その当時の三重県における漁業の様子や魚介類などが詳細に掲載されています。その中には、海女漁や海女の様子が描かれています。浮世絵とは違い、当時の海女の本当の姿が見られる貴重な資料です。
写真:『合冊三重県水産図解』より


志摩の海女の写真を載せた絵葉書は、大正時代から昭和時代の始めにかけて数多く販売されました。磯での潜水作業や、漁の後に浜で暖をとる風景、海女にポーズをとらせた写真等があり、海女と言えば白い磯着のイメージが定着している背景にはこれらの絵葉書の影響も考えられます。
近代の文学作品にも海女は登場します。三島由紀夫の『潮騒』は鳥羽市神島が舞台の小説です。ヒロインの初枝は海女として描かれ、これまでに5回映画化され、吉永小百合、山口百恵などのその当時の人気のある俳優が演じています。
写真:MieMu図録より

