真珠
大阪関西万博の関西パビリオンの三重県ブースでは、令和7年(2025)7月24日から8月16日まで、昭和14年(1939)に開催されたニューヨーク万博にも出品され、真珠12250個、ダイヤモンド366個を用いた「自由の鐘」の展示をしていました。この鐘は、アメリカ独立宣言の際に鳴らされた鐘を模したものです。

天然の真珠は偶然の賜物として生成されたものであるのに対して、養殖真珠は人の手によって、貝の中に核と呼ばれる丸い玉とピースという貝の細胞を、アコヤ貝の内部に挿入して生成するものです。


明治時代になって、それまで天然でしかなかった真珠に大きな変革が起こりました。三重県出身の御木本幸吉が真珠の養殖に成功したのです。このことは、真珠の流通の世界に革命的な変化をもたらしました


「真珠王」御木本幸吉は三重県の出身です。彼は東京帝国大学教授の箕作佳吉から真珠の専門知識を学び、鳥羽・志摩の地で真珠養殖に取り組みました。明治26年(1893)に相島(現、ミキモト真珠島)でアコヤガイの半円真珠の養殖に成功しました。


御木本幸吉が半円真珠の養殖を成功させると、養殖方法にも改善が行われ、御木本養殖場の桑原乙吉や西川藤吉、的矢湾で真珠養殖をしていた見瀬辰平などの努力により真円真珠の養殖に成功しました。


真珠養殖の技術が確立され、品質の優れた養殖真珠が生産されるようになると、宝飾品にも養殖真珠が用いられるようになりました。御木本幸吉は日本の養殖真珠のすばらしさを多くの人に知ってもらいたいと養殖真珠で美術工芸品を作り、国内外の博覧会などに出品しました。


御木本幸吉が博覧会等で出品した養殖真珠を使った美術工芸作品は、人目を引く豪華な作品であったため、世界中の人々を魅了しました。大阪関西万博の関西パビリオンの三重県ブースで展示された「自由の鐘」もその一つです。


真珠養殖には、海女の活躍が不可欠でした。海に潜って、真珠を育てるアコヤ貝の採集、核入れ手術を終えたアコヤ貝の放流、赤潮や台風前にアコヤ貝を安全な場所へと移動させるなど、真珠養殖の成功は海女の活躍なしではできないことでした。(写真:海の博物館)

現在は真珠養殖技術が発達し、養殖に海女の必要性はなくなりましたが、養殖を支えた海女の活躍を記念するために、ミキモト真珠島では海女の実演を行っています。現在では、昔ながらの白い磯着の海女がみられるのはここだけになりました。


明治後半~大正時代には三重県の養殖真珠は県外から海外に広がり、養殖真珠は海外市場への輸出産業として確立しました。養殖真珠はイギリス、アメリカ、フランス等に輸出され、ロンドン、パリ、ニューヨークなどに御木本真珠店が置かれました。


明治後半から大正時代、三重県の養殖真珠は、海外への直接販売網を拡大していきました。国内では、明治32(1899)年に東京の弥右衛門町に店舗を開設し、明治39(1906)年には銀座四丁目に移転しました。また、大阪・神戸にも御木本真珠店は置かれました。場公園として整備されています。


ミキモト真珠島は、三重県鳥羽市の鳥羽湾内に浮かぶ小島です。養殖真珠発祥の地であり、当時は相島と呼ばれていました。昭和26(1951)年に一般開放され、島内では真珠工芸品が展示されている博物館があるほか、海女の実演が催されています。


ミキモト真珠島にある真珠博物館は、歴史、科学、産業、美術など多角的な視点で真珠の魅力を発信し、真珠工芸品を展示しています。アンティーク・ジュエリー等のコレクションが常時100点ほど展示されています。また、真珠王の人物像に迫る御木本幸吉記念館などもあります。


大阪・関西万博の関西パビリオンの三重県ブースにおいて期間限定で展示された真珠を12250個使った美術工芸品の「自由の鐘」は、三重県鳥羽市にあるミキモト真珠島内の真珠博物館が所蔵しています。当館には多くの真珠の工芸品が展示されています。


御木本幸吉は自分の作った真珠で世界中の女性を美しく飾るという夢があり、そのために真珠養殖の実現に邁進しました。現在、真珠の特性を生かした自由なデザインのジュエリーの製作により、多くの人が真珠を宝飾品として身に着けることが可能になりました。

志摩市歴史民俗資料館が所蔵する国の登録有形民俗文化財「志摩半島の生産用具及び関連資料」の資料には、かつて賢島にあり、日本の真珠養殖の発展に寄与した旧国立真珠研究所の資料も含まれています。


真珠養殖がさかんな英虞湾は、リアス海岸として有名で、さまざまな形の島や半島が美しい海岸線をつくっています。伊勢志摩国立公園の一部です。雄大な英虞湾をつつむ夕景は、言葉では言い表せない美しさがあり、横山、ともやま公園から一望できます。
写真:(C)”Visit ISESHIMA” Bureau
