トップページ  > 紙上博物館 > 安乗埼灯台建築のイギリス人技術者

第94話 安乗埼灯台建築のイギリス人技術者


灯台建築掛と度会県庁との往復書

灯台建築掛と度会県庁との往復書

安乗埼灯台建築のイギリス人技術者 「神宮参拝」認められず

三重ブランド「安乗(あのり)ふぐ」で知られる志摩市阿児(あご)町安乗には、風光明媚(めいび)な安乗崎があり、岬の突端に「安乗埼灯台」が建つ。今回紹介するのは、その灯台の建築技術者の神宮参拝にまつわる三重県行政文書だ。
それは、1872(明治5)年の「志州安乗村出張灯台建築掛より御雇英人遊歩之儀ニ付往復書」と記された袋に収められている。
現在の安乗埼灯台は2代目にあたる。初代は、イギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの指導で造られた。彼はスコットランド出身で、68年8月、妻子及び助手2人と来日し、76年3月に帰国するまでの8年間に日本全国で26ケ所もの灯台設計・建築にかかわり「灯台の父」と呼ばれている。
安乗埼灯台は、ブラントンの指導により洋式灯台として全国で20番目に設置された。総けやき造り、八角形の堅固なもので高さは10.6メートルだった。その後、海岸線が波に浸食されたため、後方に移設したが、1948(昭和23)年に現在の鉄筋コンクリート造りに代わるまで海の安全を守ってきた。旧灯台は現在、東京都品川区の船の科学館構内に移築復元されている。
安乗埼灯台の建築が始まったのは1871(明治4)年。各地の建築現場を船で回るブラントンの指導の下、イギリス人技術者が安乗に住み込んで建築にあたった。翌72年のこと。文書によると、「志州安乗村燈台建築方御雇英人当節出張いたし居候処、勢州辺見物いたし度旨申立候(中略)且亦 太神宮地中江罷越候・・・」とある。イギリス人技術者が出張の機会に伊勢のあたりを見物したい、そして、伊勢神宮にも行ってみたいと言ったのだ。
 灯台建築係が、6月3日付けで当時の度会県庁に対し、不都合があるかどうか、まず伺いをたてた。よほど急いだのか至急返事がほしいとある。
 これに対し、県庁からの返事は6月4日付けで出されている。これによると、外国人が自由に遊歩できる範囲は制限されており、制限区域外へ出る場合は国(太政官)からお達しのあることなので、県庁の対応では不都合であると書かれている。そして、神宮参拝については、別途指示があったことなので心得るようにとある。これは、70年に太政官から度会県庁に外国人の神宮参拝を停止するようにという示達があったことを指していた。
 明治初年、日本の文明開化に大いに貢献した外国人技師たちだ。その待遇はVIP並みであったと思うのだが、こうしてみると日本での行動は窮屈だった様子がうかがえる。
外国人の神宮参拝希望は後を絶たなかったようだが、このすぐ後、72年11月2日の神宮の記録に「御雇外国人1名参拝。これ外国人参拝許可の初めなり」とあり、それまで外国人の参拝が許されなかったことが分かる。また、73年3月の記録には、「英国人参拝。これより後外国人頻(しおり)に参拝」とある。安乗埼灯台は73年4月1日に本点灯するが、ブラントンたち技師は機器の取り扱いなどの指導のため、その後も安乗へ来ることはあったようだ。その間、神宮を訪れる機会に恵まれたのではないだろうか。

(県史編さんグループ 本堂弘之)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る