トップページ  > 紙上博物館 > 「ファウナ ヤポニカ」

第90話 「ファウナ ヤポニカ」


 坂之下のオオサンショウウオが載っている「ファウナ ヤポニカ」

 坂之下のオオサンショウウオが載っている「ファウナ ヤポニカ」

「ファウナ ヤポニカ」 日本知る貴重な情報源

江戸幕府の鎖国政策で、ヨーロッパ諸国で唯一、通商が許されたオランダは長崎出島に商館を置いていた。商館員の健康管理のために派遣された商館医にはケンペル、ツンベルグなど日本の自然や文化をヨーロッパに紹介する研究者もおり、当時のヨーロッパの知識人にとって、東洋の謎の島国、日本を知る貴重な情報源となっていた。
オランダ商館医のドイツ人、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1823(文政6)年に27歳で来日し、29年に帰国するまで、長崎の鳴滝塾で日本人に近代西洋医学を教えるとともに、日本の歴史や文化、動植物、地理、気象などの研究を行い、多様な資料を収集し、成果を「ニッポン」「ファウナ ヤポニカ」「フローラル ヤポニカ」などの著作で広くヨーロッパに紹介した。
「ファウナ ヤポニカ」は、シーボルトがオランダに持ち帰った膨大な動物標本類をもとに、ライデン国立科学博物館の館長テミンク、シュレーゲル、デ・ハーンの協力で、33〜50年に分冊形式で順次、出版された。哺乳(ほにゅう)動物、鳥類、爬虫(はちゅう)類(両生類を含む)、魚類、甲殻類編で構成され、甲殻類編がラテン語、その他はフランス語で書かれている。写真は県立博物館所蔵の「ファウナ ヤポニカ」で、分冊形式のものを5冊に合冊した原書だ。
シーボルトがオランダに持ち帰った動物標本の中に、生きたオオサンショウウオがあった。商館長の将軍表敬に随行した彼の「江戸参府紀行」には、江戸に向かう途中の26年3月27日、鈴鹿の阪之下(現亀山市)で、一行に先行した門人、湊長安が1匹の珍しいサンショウウオを入手したと記されている。
当時、ヨーロッパでは、オオサンショウウオは絶滅した化石動物とされていたため、大きな日本のオオサンショウウオの生体は人々の驚きと関心を集めた。38年までライデンで飼育され、後にアムステルダムの動物学舎の水族室に移され、81年まで生存した。
「ファウナ ヤポニカ」爬虫類編には、この生体とされる図が見開いて全面に掲載されている。シーボルトは、その序で鈴鹿山の麓(ふもと)の阪之下という小さな村でドクトル長安が探し出したオオサンショウウオを初めて観察し、村人の情報ではそれはオクデ山でしばしば見つけられること、その一匹を幸運にも生きたままヨーロッパに持ち帰えることができ、現在(執筆当時)も博物館にあって3フィート(約91センチ)となり、シュレーゲルの研究対象となっていると記している。また、同編の本文を執筆したテミンクもシーボルトが阪之下でオオサンショウウオを入手し、それらは鈴鹿山のオクデ山の湿地に生息すると記述している。
 現在、「オクデ山」の地は特定できない。また、オオサンショウウオの生育地域も淀川水系の伊賀地域と言われているが、19世紀中ごろのヨーロッパでは「ファウナ ヤポニカ」に掲載された阪之下のオオサンショウウオは広く知られる存在だった。  

(三重県立博物館 杉谷政樹)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る