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第87話 観心十法界図


観心十法界図

観心十法界図

観心十法界図 仏界―地獄の十界表現

この絵は、上部に「観心十法界図」と記されたほぼA3サイズの単色版画で、07年に県史編さんグループが入手した。画面の中央に円を描き、その中心の黒い円内にがい骨らしき人形が座っている。よく見ると、蓮(はす)の台の上に「心」という字があって、人形はそれを大切に抱えているようにも見える。その周りの円は小さな丸で十の世界に区切られ、それぞれに「仏界」、「菩薩」(ぼさつ)、「縁覚」(えんがく)、「声聞」(しょうもん)、「天道」、「人界」、「修羅」、「餓鬼」、「畜生」、「地獄」と書かれている。
悟りを開いた仏の世界から、様々な苦しみを受ける地獄の世界までの十界をあらわしている。さらにその下には解説があって、心がけ次第で、この十の世界のどこへでも行けると説く。また、念仏を唱えることを勧め、周囲を区切る小さい丸を唱えるごとに消していくことで百万遍になり、極楽往生できるという。絵の仏界と菩薩を区切る部分が黒く塗りつぶされていることから、実際に念仏していたことがうかがえる。
文末にある署名から、制作したのは「勢州楠原」の「浄蓮文圭」という人物であることが判明する。津市芸濃町楠原の浄連寺には、文圭に関する記録や遺品が伝来しており、その事績が分かる。
「芸濃町史」によると、文圭は覚順とも言い、1792(寛政4)年に林村(現津市芸濃町林)で生まれている。浄蓮寺の覚明を師として出家し、1819(文政2)年に同寺住職となり、1869(明治2)年に亡くなった。覚順は密教に通じ、弟子も多くいたと伝えているが、特筆すべきは多くの石造物を残していることだ。その代表的なものとして、石山観音の聖観音立像を挙げることができる。
 石山観音は楠原西部の山中にある岩山で、多数の磨崖仏(まがいぶつ)が刻まれていることで知られる。聖観音立像は、岩を光背(こうはい)の形に彫り、その中に半肉彫りで表したもので、像高252センチの巨像だ。記録によると、1848(嘉永元)年正月に造り始め、同年の5月に開眼供養されている。覚順が画工に命じて奈良の唐招提寺の観音像を模写させ、それを元に彫刻したとされ、現在、その下絵が残されており、浄蓮寺が管理する。
 覚順は、このほかにも多くの石造物制作にかかわっているが、この観心十法界図も石造物と同様に彼の信仰から生まれた。版画という、量産を前提に制作されたものであることから、あるいはこの近くで発見される可能性も期待できよう。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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