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第85話 尾鷲組大指出帳写


尾鷲組大指出帳写 表紙

尾鷲組大指出帳写 表紙

尾鷲組大指出帳写 本文

尾鷲組大指出帳写 本文

尾鷲組大指出帳写 14村の様子書き記す

 今回は、1859(安政6)年に写された「尾鷲組大指出帳(おおさしだしちょう)写」を紹介したい。1793(寛政5)年当時の尾鷲地域の村々の様子を書き留めたもので、そこには村々の生産高や年貢、家数、人口、池、生業などが書き記されている。
大指出帳は本来、領主交代の際に、村から新領主に提出される。領主交代の多かった桑名藩、亀山藩、鳥羽藩の村指出帳が多数、残されている。領主交代のなかった紀州藩領でなぜ、作成されたのか、明らかでない。
 さて、大指出帳写には尾鷲組の14村の様子が書き記されている。早田浦、九木浦、行野浦、大曽根浦、向井村、矢濱村、林浦、南浦、中井浦、堀北浦、野地浦、天満浦、水地浦、須賀利浦である。ここでは、1157軒、6021人(8歳以上)が暮らしていた。また、生産力の指標である尾鷲組村の総石高は2154石余、内訳は田が1491石余、畑が663石弱だった。中でも田の石高は洪水による荒地や茶畑への転用などの理由で実際には967石余りしかなかった。
尾鷲組の生業を見るにあたり、尾鷲組の総石高を利用するが、江戸時代の農民は、1人1年間、1石あれば暮らせたといわれる。今、それを指標に尾鷲組の生活を推測すると、2154石余で六千余人分の食糧を確保することは困難であろう。
この地域は海に面しており、漁業から生活の糧を得ていたことは容易に想像がつく。実際に「大指出帳写」にも、鰹(かつお)船、地引網舟などの船や名吉(みょうきち、ボラ)網、鰹取網、海老(えび)網を所持していたことが記され、九木浦では「漁稼仕(つかまつり)」、行野浦では「春秋名吉網漁、十月に鰘(むろあじ)漁仕」、大曽根浦では「春は磯草取、名吉漁とも仕、十月頃(ごろ)より冬中ハ鰘漁、其外小漁仕」、須賀利浦では「年中漁稼仕」などの記述も見られる。
実は漁業以外にも生業に関する記述が見られる。先に紹介した九木浦では「漁間には薪伐り出し廻船へ売申…諸廻船の宿等仕」とあり、薪売りや諸廻船の宿泊所を経営していた。また、林浦では、石高が少ないので、「炭焼稼」「漁稼」「江戸往来仕、商売事も渡世仕」と炭焼き、漁、江戸との商売などを行っていた。南浦では「半分は漁稼、半分は商人ならびに田畑耕作」で生計を立てている。さらに、中井浦では「往還筋のものは小商いや旅人の宿等仕」と、街道筋の者は熊野巡礼客などを当て込んで旅館業を営んでいた。
尾鷲組の村々では、矢濱村など一部の村を除き、田畑耕地が少なかったため、漁業のほか、それ以外に薪売り、炭焼き、廻船宿、街道稼ぎなど、山や海などの自然条件を巧みに利用した生業が見られる。

(三重県史編さんグループ 藤谷彰)

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