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第83話 「伊勢参宮記」


「伊勢参宮記」(三重県史編さんグループ所蔵)

「伊勢参宮記」(三重県史編さんグループ所蔵)

「伊勢参宮記」 よくわかる近世の旅

 今回紹介するのは、「伊勢参宮記」と題した全20冊の紀行文。1816(文化13)年3月に出発して、同年6月に帰郷するまでの大旅行の記録で、筆者は肥前国田代領永吉の山内石麿という人物だ。
田代領永吉は現在の佐賀県鳥栖市永吉町で、当時は対馬藩の飛び地だった。石麿は20歳で大病を患い、そのためか神仏への崇敬を厚くしていたようで、23歳の時、伊勢参宮へと旅だった。同行者は八幡宮の神官梶田(のぎた)真麿と同領幡崎村の源六、そして石麿の従者伝次。行程は一ノ谷・尼崎から有馬温泉を経て京都へ。その後、比叡山から熱田神宮へと向かい、桑名に渡って参宮した。帰路は大和吉野から高野山、和泉・河内を経るというものであった。
石麿一行が桑名に入ったのは5月3日。桑名については、人家一千軒余、富商が多く、土産物も多いと記している。翌4日は雲津(現在の津市)に泊まり、5日の夕刻、御師高向(たかぶく)二頭大夫の屋敷に到着している。ここで2泊し、参宮しながら各所を巡っている。その様子を少し詳しく見てみよう。
6日早朝、一行は高向二頭大夫の付けた案内人に導かれて外宮へと向かった。二頭大夫から、籠(かご)か馬を勧められたが、徒歩でよいと断っている。外宮にお参りした後、高倉山の「天の岩戸」へ。これは高倉山古墳の石室を岩戸に見たてたもので、傍らには茶屋もあり、「甚だ美景也」と記している。
次に一行は、岡本町の小田橋を渡り、妙見町に至っている。妙見町は現在の伊勢市尾上町で、内宮へ向かう間(あい)の山の入り口にあたることから、参宮者でにぎわった。石麿も「この町産物多し」として、伊勢土産の薬として知られた萬金丹の店が三、四軒もあると書き残している。
やがて一行は間の山、古市のにぎわいを抜けて内宮へと向かう。石麿は宇治の町の様子を「御師の邸宅が甍を並べて広大」として、中でも山本大夫の屋敷が最も大きいと述べている。この山本大夫の屋敷図が県史編さんグループ所蔵資料の中にあり、第51回の紙上博物館で紹介した。
石麿らは茶屋で休息するが、そこは高向二頭大夫の茶屋だった。御師らは内外宮を巡る参宮者のため、茶屋まで経営していたのだ。
翌日、一行は朝熊山に登り、眺望を楽しむなど「お伊勢参り」を満喫して帰路につく。興味深いのは、帰りにわざわざ松阪で1泊して、本居春庭や三井高陰のもとを訪れていることで、これは山内石麿が、本居宣長の門人、青柳種信の孫弟子にあたるからと思われる。つまり筆者自身、国学を学ぶ文人でもあった。この参宮記に、各地の名所・旧跡はもちろん、地誌にいたるまで事細かに記されているのもうなずける。
大旅行を楽しんだ一行だったが、従者の源六と伝次は農民で、田植えなどの家業を放り出しての参宮に故郷ではちょっとした騒ぎになっていた。そうした後日談を記してあることも、この参宮日記の面白さである。 

(県史編さんグループ 小林 秀)

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