第80話 阿漕焼
千鳥文 1
千鳥文 2
波千鳥文 3
波千鳥文 5
網干千鳥文 6
千鳥文 9
阿漕焼 親しまれた千鳥の文様
江戸時代中頃に桑名の豪商、沼波弄山(ぬなみろうざん)が小向村(現朝日町)で始めた萬古(ばんこ)焼、また、幕末の森有節による萬古焼の再興は伊勢国内に作陶の機運を高めた。
津では、藩が沼波弄山の弟子瑞牙(ずいが)を招いて安東村(現津市)で作陶を始め、安東焼と呼ばれた。この安東焼から阿漕焼が生まれる。概要は次のとおりだ。
幕末、津藩は倉田久八に命じて安東焼の再興を図った。安東村観音寺から船頭町へ移転し、信楽出身の上島弥兵衛の協力を得て操業した窯は、御納戸(おなんど)焼とも呼ばれた。だが、明治時代に入ると藩の支援が途絶え、常用食器類なども作るようになり、また、阿漕浦に近いため阿漕焼とも呼ばれるようになったが、1890(明治23)年までに廃窯した。
船頭町の窯の終末と重複して贄崎で土手阿漕が操業を始め、このころから「阿漕」の窯印が普遍的に用いられた。97年ごろに解散、その後は会社阿漕(1901〜05年)、小島阿漕(05〜09年)、上島阿漕(07〜22年)、重富阿漕(22〜26年)、福森阿漕(31年〜現在)と変遷し、明治時代後半以降はいくつもの窯が衰退と復興を繰り返したが、阿漕焼の名は代々受け継がれた。
阿漕焼の各窯で焼かれた食器類には、千鳥をモチーフにした文様があしらわれているものが多い。写真の模様は、県立博物館が所蔵する阿漕焼から選んだ。
千鳥は古くから和歌に詠まれ、家紋や柄文様にも用いられた。阿漕焼の千鳥は、羽根を広げて飛ぶ姿を図案化されたものがほとんどで、波間を群れ飛ぶ姿や海岸に干された網の上を飛ぶ様の文様が定番化している。また、線描のほかに写実的なもの、蚊やりの穴のシルエット、千鳥とは思えない程に変容したものもみられる。かつて、阿漕焼の陶工は窯場近くの阿漕浦の砂浜や干潟に群れる千鳥を目にしながら、千鳥文を器に描き込んだのであろう。阿漕浦を介して結びつく阿漕焼と千鳥文は津の人々に親しまれ、地域の特色の一端を担ってきた。
(三重県立博物館 杉谷政樹)