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第79話 「参宮往還立枯松伐払願」文書


参宮往還立枯松伐払願

参宮往還立枯松伐払願

「参宮往還立枯松伐払願」文書 伊勢街道あった松並木  

陽光きらめく季節になると、旅人たちの足取りも軽くなったことだろう。実際、江戸時代、伊勢に向かって旅する人の数は春になると急激に増え始めた。しかし、5月ともなると汗ばむ日もあるし、時には思いがけず風の強い日もある。そんな時、日陰をつくり、風を避けてくれる街道の並木は旅人たちにとってありがたかったに違いない。今回は伊勢街道にも、かつて松並木があったという資料を紹介したい。1872(明治5)年5月、奄芸(あんげ)郡小川(こがわ)村(現津市栗真小川町)の代表から奄芸郡第一区戸長宛(あ)てに出された「参宮往還立枯松伐払願」という県庁所蔵の明治期文書だ。
 江戸時代、小川村と北側の中瀬村(同河芸町中瀬)間の約700メートルと南の中山村(同栗真中山町)間の約500メートルには、伊勢街道随一の松並木があり「小川の松原」と呼ばれていた。この松並木は、今に残る東海道の「御油(ごゆ)のマツ並木」(愛知県豊川市 国指定天然記念物)にも劣らない立派なものだった。
 ところが、この文書によると「小川村里北と里南の参宮往還に生えている松並木が枯れてきた。大風のときには旅人の通行にも危険なので見分の上伐採してほしい」とある。明治初め、松並木に枯れ木が出始めたのだ。文書は、枯れ木の幹回りを測り、記録している。太いもので6尺(約1メートル80センチ)を超えるような松もあるが、1〜2尺のものが多いようだ。枯れ木の数だけで48本もあり、並木の総数はかなりのものだったろう。
 願い出を受けた戸長は早速、調べ、相違ないことを三重県に進達している。枯れ木はすぐにでも伐採されたのだろうが、残念ながら記録は残っていない。
 ところで、この文書が出されたころは伊勢街道という名称はまだ定まっておらず、「参宮道・参宮往還」などとも呼ばれていた。1876年の『三重県治概表』に伊勢街道という名称で載っており、このころに定着していったと考えられる。
 枯れ木を伐採したものの、小川の松原はその後も健在だったようで、1887年ごろに作成された「伊勢国奄芸郡小川村全図」(県庁所蔵)を見ると、小川村―中瀬村の間と、小川村―中山村の間は街道両側が緑色に着色され、凡例に「山林」と記されている。
 しかし、伊勢街道の様子は時代が進むにつれて変わっていく。1920(大正9)年に施行された道路法で東京市―神宮間が1号国道となったこともあり、参宮国道として整備されていった。戦時中には松根油をとるため松並木もすっかり伐採されてしまったと言われる。52(昭和27)年には、新しい道路法により四日市市―宇治山田市(現伊勢市)間が国道23号となった。現在、小川―中瀬間は往復4車線に拡幅され旧街道の面影をとどめていない。国道23号中勢バイパスの工事も進められており、現代の伊勢街道が大きく様変わりする日も遠くない。
 一方、国道23号から外れた部分は旧伊勢街道の趣を残している所も多い。五月晴れの日には、江戸時代の面影を探しながら散策してみるのもいいだろう。

県史編さんグループ 本堂 弘之

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