トップページ  > 紙上博物館 > 大阪の陣・伊勢上野藩、分部氏の記録 褒美、動員数など詳しく

第77話 大阪の陣・伊勢上野藩、分部氏の記録 褒美、動員数など詳しく


「大坂御陣寅卯両年覚書」表紙

「大坂御陣寅卯両年覚書」表紙

「寅ノ年 大坂御陣ノ覚」の部分

「寅ノ年 大坂御陣ノ覚」の部分

大阪の陣・伊勢上野藩、分部氏の記録 褒美、動員数など詳しく1614(慶長19)年、豊臣秀頼が鋳造させた方広寺大仏殿(京都市東山区)の梵鐘銘(ぼんしょうめい)「国家安康」「君臣豊楽」を徳川家康が問題にし、この年の11月に大坂冬の陣が始まった。12月に講和が成立し、大坂城の堀は埋められた。翌年4月には夏の陣が始まり、5月に大坂城は落城、秀頼と母淀殿が自害して豊臣氏は滅んだ。
 大坂冬・夏の陣はよく知られているが、このとき徳川方として出陣した伊勢上野藩の分部氏の記録が県史編さんグループに所蔵されている。「大坂御陣寅卯(とらう)両年覚書」の表題を持つ16.8センチ×12.1センチの冊子で、「寅」が慶長19年、「卯」が同20年(7月に元和と改元)を表す。
 1702(元禄15)年に書写されたもので、内容から三つの部分に分けられる。一つ目は「覚」と書き始められ、「一銀子壱枚 百五拾石 細野勝大夫」のように58人について銀・金・米の量、禄(ろく)高、姓名が列挙されている。禄高の代わりに「鉄砲足軽」「中間」などと記されている者もある。末尾には「卯極月十八日」の日付がみえる。
 この部分についてはほぼ同内容で、藩主光信が花押を据えた滋賀県高島町の分部家宝物保存会所蔵の別の文書がある。両者から、夏の陣の後、元和元年12月に藩主光信から銀・金・米を与えられた家臣を書き上げたものと推定できる。
 二つ目は59人が「冬春御陣」を務めたと書かれている部分で、59人の内訳は冬の陣に立った者19人、褒美をもらった者36人、その他4人であったという。
 三つ目は「寅ノ年大坂御陣之覚」と題された部分で、ここを見ると、もっと多数の人々が動員されていたことが分かる。まず、装備としては、旗20本、鉄砲100挺(ちょう)、弓20張、長柄50本、持筒10挺など。人数は馬印2人、弓立2人、歩行衆上下60人、手明衆20人、馬疋9人、草履取5人、馬上60人、中小姓衆6人、御家中召連795人など、惣人数1200人と記されている。二つ目の部分に書かれた人数との関係はよく分からない。
 「徳川実紀」によると、分部氏は、田丸藩主稲葉氏、神戸藩主一柳氏、松坂藩主古田氏らとともに慶長19年10月に出陣の命を受けた。桑名藩主本多忠政の指揮下に入り、冬の陣後も在陣していたようだ。慶長20年正月1日付の分部光信扶持方米(ふちがたまい)請取状(分部家宝物保存会蔵)には、大坂の陣に際し、1200人分180石の米を、正月1日から30日までの30日分として受け取ったとある。写真にみえる「冬春御陣」という表現は、こうした年明け後の在陣も含めたものと理解できる。
 夏の陣でも分部氏は「伊勢組」として本多忠政に属した。激戦となった5月6日は苦戦したが、「分部氏由緒書」によれば、翌七日には首級六十余をあげたという。秀頼、淀殿が自害したのはその翌日のことであった。    

(県史編さんグループ 小坂宜広)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る