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第76話 阿漕火山灰層の凝灰岩  


火山灰層の顕微鏡写真(スケールは0.1o)

火山灰層の顕微鏡写真(スケールは0.1o)

阿漕火山灰層の露頭(津市半田)

阿漕火山灰層の露頭(津市半田)

阿漕火山灰層の凝灰岩  研磨や洗剤に長く利用

今回は、火山灰が固結して生じた津市半田産の凝灰岩を紹介したい。現在の伊勢湾周辺に約500万年前から約80万年前にかけて堆積(たいせき)した東海層群亀山層の最下部に見られる「阿漕火山灰層」から取り出したもので、上の写真はその顕微鏡写真だ。おおむね0.1ミリ以下の無色透明の不定形な火山ガラスが主体となるガラス質火山灰であり、微量の斜長石や石英を伴う。また、ジルコンや黒雲母などの重鉱物もごく微量含まれている。阿漕火山灰層は、津市半田から産品・安濃町戸島・芸濃町多門を経て、亀山市両尾町にかけて広く分布している。このうち、津市域では層の厚さが4〜10メートルもあり、最大18メートルに達するところもある。これらを噴出した火山灰は特定されていない。
この火山灰層が堆積した年代は「フィッション・トラック法」と呼ばれる年代測定により、460万年±20万年前とされ、東海層群の年代を知る資料のひとつとなっている。また、堆積年代や火山灰層中に含まれる火山ガラスの特徴、鉱物種などから、広域的な火山灰層の対比が行われており、阿漕火山灰層は知多半島の東海層群常滑累層に挟まれた大谷火山灰層に対比され、広範な地域に堆積した東海層群を関連づける鍵層となっている。
さて、このような阿漕火山灰層は、私たちの生活にも密接にかかわってきた。津市半田では、丘陵部に露頭している阿漕火山灰層を原料として磨砂(みがきずな)が生産されてきた。それは、火山ガラスを主成分とした良質の天然のクレンザーとして、かつては金属などの研磨や台所の鍋釜食器類の洗剤として長く利用された。
当地での磨砂生産は、1877(明治10)年の「内国勧業博覧会出品解説」によれば1837(天保8)年に始まったとされる。1872年の「大日本国誌 伊勢国」には半田村(旧安濃郡)の磨砂は営業者7戸、産額3360石、金540円で、半田砂と称するとある。記録によって生産高は異なるが、大正から昭和の前半期に最も盛んとなり、「三重県統計資料」によれば、1915(大正4)年の生産高は332万500貫(約1万2450トン)となっている。また、同書の1939(昭和14)年の津港からの磨砂の移出高は1313トン、翌40年は1万7423トンとなっており、県内や名古屋、和歌山、四国・中国地方に向けて積み出しされた。戦後も十数万トンが移出されていたようで、磨砂生産は中勢地域の代表的な地場産業だった。しかし、合成洗剤の普及により磨砂の需要が減少して生産も縮減した。近年は生産高がわずかになったが、無公害洗剤としての磨砂を見直す声もある。
このように、阿漕火山灰層は、三重の地史を探る重要な資料であるとともに三重の産業を語る貴重な資料ともいえる。             

(三重県立博物館 小竹一之)

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