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第73話 四日市波止場横断面


「三重郡四日市波止場横断図」のD波止場断面図

「三重郡四日市波止場横断図」のD波止場断面図

四日市波止場横断図 測量にデ・レーケ関与か

 県が所蔵する「三重郡四日市波止場横断面 明治十一年七月廿一(21)日測量」は縦82.5センチ、横58.5センチの図面だ。縮尺は50分の1で、破損や虫損、シミもあり、状態はあまりいいとはいえない。
 図面には四つの波止場断面図が描かれ、上からA・B・C・Dとアルファベットが付けられている。それぞれの断面図に大潮時と小潮時の潮位を測定した際の「大満潮線」「小満潮線」「大干潮線」「小干潮線」が引かれ、波止場の高さをおおまかに知ることができる。
これを見ると、AからDの波止場断面図は、かなり様子が異なっている。
 一番上のAの断面図は、整形された石垣がきれいに積まれ、ほぼ完成した状態。その下のBでは、法面(のりめん)は石積みが整えられているが、上端部が未完成だ。Cも同様だが、大満潮時にはわずかに海水面から上端部がのぞく程度に海中に沈んでしまう。そして、Dは小満潮時にほとんど水没する状態だったようだ。
 AからDはそれぞれ形態も異なり、波止場の各所の断面図と考えられる。これに伴う平面図が見当たらないのが残念だ。
 いずれにしても、こうした「作りかけ」の波止場断面図が作製されたのはなぜだろう。それは「明治11(1878)年」が、四日市港にとって大きな転換期だったからだ。そこで、この年に至る同港の動向を簡単に押さえておこう。
 73年から始まった稲葉三右衛門による同港の工事は、75年1月に県営の工事へと切り替わって続行される。だが、76年の地租改正反対一揆(伊勢暴動)で襲撃され、中断したまま放置されていた。ただ、その後も県は工事を放棄したわけではない。当時、県令の岩村定高は、むしろ稲葉が計画したよりもはるかに大規模な築港構想を打ち出した。
 折しも、木曽三川改修事業で東海地方を巡視していたオランダ人の土木技師ヨハネス・デ・レーケに、内務省から同港視察の命が下り、デ・レーケは78年7月12日、四日市に到着した。これについては、1900年刊行の冊子「四日市港に就(つい)て」に、次のような一文がある。
 明治十一年三重県に於(おい)て初めて内務省傭工師デ・レーケ氏に嘱託して測量設計に着手し…。
デ・レーケの到着日と図面の作製日は、10日しか違わない。となれば、この図面はデ・レーケの指導によって県が作製した可能性が非常に高い。アルファベットによる波止場の区分も、そう考えれば合点がいく。
 これまで、地租改正反対一揆によって中断してから1881(明治14)年の稲葉による工事の再開までの間、同港工事の状況はよくわかっていなかった。「作りかけ」と前述したが、今回の場合は、そのことにこそ意味があるのではないだろうか。
 というのも、この図面からは、工事中断という事態に苦慮する県の姿が分かるだけでなく、「四日市港に就て」でしか知ることができなかったデ・レーケ指導の測量という出来事を、より詳しく知ることができるからだ。   

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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