トップページ  > 紙上博物館 > 神宮神官たちの自己推薦状「款状」を読む

第67話 神宮神官たちの自己推薦状「款状」を読む


外宮権祢宜度会貞能款状(県立博物館所蔵)

外宮権祢宜度会貞能款状(県立博物館所蔵)

神宮神官たちの自己推薦状「款状」を読む 中世の貴重な原文書

 三重県立博物館には戦国時代にさかのぼる伊勢神宮神官の款状(かんじょう)が3通所蔵されている。款状は「自己推薦状」のような嘆願書で、官位や恩賞などを望む際に提出された。年代と記主はそれぞれ1549(天文18)年の度会末真(わたらいすえざね)、翌年の度会貞能(さだよし)、そして1586(天正14)年の荒木田秀親(ひでちか)だ。
 神宮神官の款状は、神宮関係の文書のやり取りを記録したものの中に写しが残されている場合もある。だが、願いが達成されれば途端に必要なくなってしまうためか、祢宜(ねぎ)・権祢宜たちの人員の多さや歴史の長さからすれば款状の量は膨大な数にのぼるはずなのに、残されている原本は非常に少ない。特に県立博物館所蔵の款状は中世と古く、貴重な原文書例といえる。
 写真は、その中の1通「天文十九年七月日」付の外宮権祢宜度会貞能款状(縦27.2センチ、横44.7センチ)。当時、正六位上の位にあった貞能が「五品栄爵」つまり従五位下の位への昇進を願っている。特に六位から五位に任じられることを「叙爵」(じょしゃく)といった。
 款状はまず、両宮の祢宜庁、宮司を介して京都にいる神宮祭主の元へ届けられた。それに祭主が書状を添えて朝廷へ提出し、奏聞、勅許を経て薄墨色の宿紙(しゅくし)に書かれた文書「口宣案」(くぜんあん)が出され、任命されることになる。
 貞能款状の冒頭に、別筆で本文より大きく書かれた「祭主二位申」は、当時の祭主・大中臣朝忠(おおなかとみともただ)からの申請であることを、款状を受け取った朝廷の担当官がメモした文字で、この款状が当時、実際に当時朝廷に提出、処理されたことを示している。古文書学上からも貴重な事例といえる。
 この款状を提出した貞能は1578(天正6)年の外宮遷宮記録に名があり、当時は「檜垣善五郎」を名乗っていたことが記されている。
 檜垣家は松木家などとともに、外宮の一祢宜なども輩出した家柄で、江戸時代後期に編纂(へんさん)された「考訂度会系図」によると貞能は、款状が出された7月中の同月22日にめでたく叙爵されている。後にはさらに2階級進んで正五位下に任じられ、名も「貞信」と改めた。名乗りも「善五郎」から「宮内」を称し、1610(慶長15)年、62歳で没したと記されている。
ここで注目されるのが、貞能叙爵の時の年齢。系図の記述から逆算すると、没年齢を信じる限り、貞能はわずか2歳足らずで叙爵されたことになる。系図の中には、ほかに比較できる例がないが、あまりにも幼すぎる。また、款状の記述から、貞能は既に正六位上の位にあったことは確実であり、これらのことから系図没年齢の誤記と考えるのが自然だろう。
 このような編纂記録と実史料との微妙なずれは、まま見受けられる。それを見つけて考察することは、史料を読み込む際の「面白さ」のひとつだ。                              


(県史編さんグループ 小林 秀)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る