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第61話 伊勢上野初代藩主 分部光嘉


分部光嘉の知行宛行状

分部光嘉の知行宛行状

伊勢上野初代藩主 分部光嘉 知行宛行状 統治の一端

 徳川家康から分部光嘉(わけべみつよし)に1601(慶長6)年3月、2万石が与えられ、伊勢上野藩が成立した。領地は現在の鈴鹿市内と津市河芸町内にあり、光嘉は河芸町の本城山(ほんじろやま)にあった上野城を居城とした。写真は、同年6月に光嘉が家臣の別所才蔵に上野、白子、磯山で計130石の知行(ちぎょう)を与えた文書「知行宛行状(あてがいじょう)」で、三重県の県史編さんグループが所蔵している。
 分部氏は、光嘉の養子光信(実子光勝は早世)の時、1619(元和(げんな)5)年に近江国大溝(現・滋賀県高島市)に移封となり、上野藩領は津藩と紀州藩に組み入れられた。才蔵に与えられた領地は紀州藩白子領となる。
 1656(明暦2)年ごろに上野藩時代からの家臣を書き上げたと思われる「勢州御譜代慶安年中緒士以下由緒書」によると、記載された122名の中で別所姓は16名。うち4人が禄高100石以上とある。出身は伊勢の長野村、分部村、上野村で、この4人の中に別所才蔵の子孫がいるものと思われる。ちなみに、禄高(ろくだか)の最高は家老分部与次右衛門の550石だ。
南北朝の内乱期から戦国時代にかけて中勢地域に勢力を張っていたのは長野氏だ。史料では、分部氏は長野氏よりも早く登場するが、戦国時代が始まるころには長野氏の家臣になっていた。その分部氏が江戸幕府の大名になったのはどのような経緯からだろう。
 系図類によると、光嘉は1552(天文21)年に長野氏の一族、細野藤光の次男として生まれ、その後、分部光高の養子となる。
 1568(永禄11)年、中勢地域へ織田信長軍が侵攻してきた。この時、長野氏は長く勢力争いを続けてきた北畠氏から養子・具藤(ともふじ)を迎え、その傘下に入っていた。光高は川北氏とともに信長に通じ、信長の弟・信良(後の信包、のぶかね)を長野氏の養子に迎え、具藤を追い出した。その翌年、光高は織田軍の一員として北畠攻めに参加して戦死し、光嘉が分部氏の家督を継ぐ。
 光嘉は信良に仕えるが、1582(天正10)年に本能寺の変で信長が没した後は豊臣秀吉に接近していった。光嘉は次第に秀吉の信任を得、1595(文禄4)年に飯野・度会・一志3郡で計3000石を与えられ、その後、1万石に増やされる。
 秀吉の死後、光嘉は家康に従った。1600(慶長5)年、家康の会津攻めに従軍して下野(しもつけ)国(現・栃木県)小山まで行くが、石田三成方の挙兵を知ると、家康の指示で安濃津城主・冨田信高とともに急きょ引き返し、三成方の大軍を安濃津城に迎え撃った。この戦いには敗れるが、20日ほど後に家康が関ケ原で勝利し、翌年、冒頭で触れたように光嘉は2万石を与えられる。
 分部氏の移封に伴い、関係文書の多くも近江国大溝へ移動した。写真の文書は、経路は分からないが、かつて兵庫県の個人が所有していたもので、古書店を経て入手した。光嘉から家臣への知行宛行状はこの1通が知られているだけで、上野藩統治の一端をうかがい知ることができる貴重な文書だ。            

(県史編さんグループ 小坂宜広)

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