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第60話 辰砂と黒辰砂


辰砂を含む鉱石

辰砂を含む鉱石

黒辰砂(黒い結晶部分)

黒辰砂(黒い結晶部分)

辰砂と黒辰砂 丹生産、全国に知られ

 辰砂(しんしゃ)は顔料や防腐剤、水銀の原料として、世界中で古くから人間が利用してきた。硫黄と水銀の化合物(硫化水銀)で比重約8と、ずっしり重い。鉱物の硬さを示すモース硬度は2〜2.5で軟らかい。条痕色(粉末にした時の色)は濃赤色だ。
黒辰砂も辰砂とともに水銀をとる鉱石として採掘されてきた。化学組成は辰砂と同じだが結晶構造が異なり、条痕色は黒色となる。
 辰砂の名は、中国の辰州(現在の湖南省)から多く産出したことに、英名のCinnabarはギリシャ語のkinnabaris(赤い絵の具)に由来するという。辰砂は赤い色から朱砂、純粋なものは丹(たん)と呼ばれ珍重されてきた。細かく砕いても鮮やかな赤い色が保たれ、古来神聖な赤色顔料として好んで利用し、時には高価な漢方薬の原料になった。また空気中で400〜600度に加熱して水銀蒸気を発生させ、再び冷却凝縮して水銀を精製する。
 写真の辰砂と黒辰砂は、多気町丹生(旧勢和村)で産出された。古代から水銀産地として知られた丹生地域では、ほとんどが辰砂などのような硫化水銀の形で産出する。丹生地域の水銀鉱床は、新生代第三紀中新世(約1700万年前)の中央構造線に沿う酸性岩の貫入か、その後に生成されたと考えられる網状鉱脈鉱床(熱水性鉱床)だ。辰砂を産出する水銀鉱床は日本列島各地に分布するが、多くは西南日本の中央構造線付近に集中している。
 丹生地域の辰砂や水銀の歴史は、縄文後期までさかのぼる。丹生池ノ谷遺跡からは辰砂原石や朱彩土器、朱が付着した石皿などが、松阪市天白遺跡や度会町森添遺跡などからも、多数の朱彩土器や朱が付いた磨石・石皿などが出土する。
 一方、「続日本紀」には698(文武天皇2)年に伊勢など五国から朱砂が献上され、713(和銅6)年に伊勢国が貢納する調を水銀とすることが記録されている。平安時代の「延喜式」にも伊勢国から内蔵寮へ水銀400斤、典薬寮へ水銀18斤貢納の規定がある。 
古くから丹生地域で生産された水銀が貢納・献上され、東大寺大仏の鍍金(ときん)材などさまざまな用途に使われたと考えられている。当時の丹生の水銀採掘の様子や、伊勢と都を往来して水銀を商う富商に関する説話が「今昔物語集」に収録されている。
 中世に入ると、丹生山で朝廷や摂関家・伊勢神宮に帰属する人々が活発に採掘・交易し、全国唯一の「水銀座」が形成された。その後の室町・戦国時代には、水銀を原料とした化粧品の「伊勢白粉」が現在の松阪市射和で盛んに生産され、伊勢神宮の御師らによって全国に頒布された。丹生産の辰砂は縄文時代以降、朱・水銀・白粉などとして全国各地に知られた、三重を代表する鉱物だった。
 しかし、丹生の水銀生産量は次第に減少し、江戸・明治・大正時代は休山かそれに近い状態となる。昭和時代に採掘事業が一時再興されるが、1973年末の丹生鉱業所の閉山で幕を閉じた。                     


(三重県立博物館 小竹一之)

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