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第57話 昌栄新田の絵図


水没前の昌栄新田の姿を伝える「乙 開墾落成之図」

水没前の昌栄新田の姿を伝える「乙 開墾落成之図」

水没後の昌栄新田絵図「甲 水中ニ属スル図」

水没後の昌栄新田絵図「甲 水中ニ属スル図」

昌栄新田の絵図 水没後まで様子伝える

 三重県史編さんグループが保管する明治時代の絵図類の中から、先日、「昌栄(しょうえい)新田」関連の絵図を詳しく見る機会があった。
 「野寿(洲)田新田」とも言われ、幕末に度重なって起きた地震や高潮で海水が流れ込み、ついに1870(明治3)年9月の高潮で一面冠水し「亡所」となった。新田から流れ出た砂によって江戸時代まで使用された四日市港の水深は浅くなり、結果、稲葉三右衛門の四日市港修築事業につながっていった。この修築事業はしばしば紹介されているが、水没前の昌栄新田の姿を具体的に伝えるものはなかった。
 今回確認した絵図は6点で、うち5点は「元昌栄新田実測図及見取図」と表書きされた和紙製の袋に入っていた。2000分の1の実測図で正確な面積を求めたものもある。
 目を引いたのは「甲 浜田村往還東全図并元野寿田新田現今水中ニ属スル図」 「乙 元野寿田新田開墾落成之図」 「丙 元野寿田新田開墾以前之図」の3枚で、こよりでとじられていた。丙・乙・甲と、新田の成立前から水没後まで、各時期の様子を伝えている。
 「乙 開墾落成之図」からは、水没以前の姿を再現できる。海と接する外面はすべて堤防で囲まれていた。中央は田だが南北に畑があり、田と海は接していない。塩害の予防だろうか。やや北寄りの海から離れた場所に集落があり、その東側に「会所」が置かれていた。
 おもしろいのは、南東部の角にかなり規模が大きい「鯔(ぼら)池」があったことだ。鯔は当時、祝い事などの贈答にも用いられていた。「伊勢鯉(ごい)」との別称があるほどの伊勢の特産で、興味深い。
 また、2000分の1の実測図からは新田の面積も分かる。水没後の測量だが、およそ56町2反であった。
一方、「甲 水中ニ属スル図」を見ると、海に面した堤防はすべて破壊され、海水が侵入している。点線の部分が元の新田だ。西に砂だまりがあり、新田の名残をとどめている。潮干狩りもできたようで、84年開催の水産博覧会には、「四日市港字野洲田砂中」で取ったマテ貝が出品されている。
 ところで、唯一2000分の1実測図には「明治十三年九月二日」と日付が入っている。従って、同じ袋に入った残り5点の絵図面類も同じ時期の可能性がある。これから絵図面が作成された背景を推測すると、稲葉の港修築事業との関係が浮かび上がってくる。
 稲葉の港修築の歴史ではこれまで語られていないが、四日市市立博物館所蔵の稲葉家文書には、同年2月以降何度か、昌栄新田跡地の買い受け(払い下げ)を県に願い出た記録が含まれている。これは港を浚渫(しゅんせつ)した際の泥土で高砂町の南部分、つまり新田跡地を一部埋め立てて拡張しようと計画したものだ。実現しなかったようだが、「明治十三年」の新田関係の図面類が多く残っているのは、稲葉の動きが引き金になった可能性が高く、四日市港の歴史を考える上で、重要な絵図面となりそうだ。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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