第56話 勢州鰒取ノ図
歌川国貞作 勢州鰒取ノ図
勢洲鰒取ノ図 海女の伝統的な鰒漁
鳥羽市にある海の博物館で3日、「日本列島“海女さん”大集合――海女フォーラム・第1回鳥羽大会」が開催された。韓国・済州島や日本各地の海女をはじめ、会場からあふれるほど多くの研究者や市民が集う盛況ぶりで、講演、研究発表、各地の現状報告が行われた。
素潜りで、鰒(あわび)、栄螺(さざえ)、伊勢海老(えび)、天草などの魚介・海藻類を取る伝統的な漁法の海女漁は、日本各地の良好な礒をもつ地域で行われてきた。中でも、古代に御食(みけつ)国と呼ばれ、皇室へ海産物を貢進した志摩地域は、歴史・規模ともに、日本の海女漁の中心的な役割を担ってきた地域の一つだ。
志摩・伊勢地域の海女は、万葉集に「御食国 志摩の海人ならし 真熊野の 小船に乗りて 沖へ漕ぐみゆ」「伊勢の海人の 朝な夕なにかづくとふ 鰒の貝の片思いにして」などと詠まれ、延喜式「主税」志摩雑用条には「志摩国供御贄潜女卅(さんじゅう)人」、その糧食・雑用・潜女衣服の費用は伊勢国の正税から支給すると規定されている。
また1713(正徳3)年成立の地誌「志陽略誌」には、海女漁村として答志、神島、石鏡、国崎など19村があげられ、1726(享保11)年の差出帳には菅島村が加わる。そして現在も鳥羽・志摩両市の28地区で海女漁が行われている。
このように古来、志摩一円の海では、多数の海女が豊かな海の幸を取って生業としてきた。近世から近代には紀伊、伊豆、房総、遠くは北海道利尻、礼文、朝鮮半島へ出稼ぎに赴いている。このような海女の姿は近世に盛んに流布した浮世絵にも描かれ、歌麿、国芳、国貞(三代豊国)など当代人気の浮世絵師も作品を残している。
今回の「勢洲(せいしゅう)鰒取ノ図」は、三重県立博物館が収集している三重にちなむ浮世絵のうち、役者絵・美人画に秀でた歌川国貞の作品だ。海女の鰒漁を描き、国貞が若いころの1799(寛政11)年に出版された「日本山海名産図会」の伊勢鰒の挿図を踏襲した構成となっている。
志摩の海女には、陸に近い海に1人で潜るカチド(徒人)と舟で沖に出て舟上の男性の助けを借りながら深い海で 漁をするフナド(舟人)がある。この作品の海女漁は男女2組が舟に乗り組み、潜水する海女のイソヅナを舟上の男が持つフナドだ。左側の舟縁から右側にかけて、まさに潜ろうとする海女と、海底の岩礁で鰒をイソノミで起こして取る海女、再び浮上して船上の男に鰒を手渡す海女が配置され、フナド海女の一連の漁の様子が端的に描かれている。
この作品のように、海女の浮世絵には鰒が描かれることが多い。鰒は海女漁の最も重要な獲物であり、延喜式「内膳司」には志摩国御厨の貢進物として鮮鰒(なまあわび)、蒸鰒(むしあわび)、熨斗鰒(のしあわび)である玉貫鰒(たまぬきあわび)・御取鰒(みとりあわび)などが記載されている。
また、近世には志摩から名古屋、津、伊勢河崎などへ鮮鰒が舟出しされ、古来より続く伊勢神宮への供進に加えて御師などが贈答、配付に用いた大量の熨斗鰒が宇治、山田などに出荷された。当時、1年間に志摩地方から出荷された熨斗鰒は1万3722把(わ)、その生産には鮮鰒約383トンを要したとの推計もある。これに舟出しした鮮鰒を加えると、近世には相当量の鰒が水揚げされていた。
現在、鰒などの水揚高はかなり減少している。皆で力を合わせ、多彩な海の幸を育む豊かな三重の海をよみがえらせ、伝統ある海女の文化を未来へと伝えていきたいものだ。
(三重県立博物館 杉谷政樹)