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第49話 自家用防空壕のつくり方


自家用簡易防空壕及待避所の構造要領(三重県所蔵)

自家用簡易防空壕及待避所の構造要領(三重県所蔵)

自家用防空壕のつくり方 戦争遺跡を次世代に

 第二次世界大戦が終わって64年の年月が流れ、今年も8月15日を中心に全国各地でさまざまな平和への誓いがなされた。一方で、戦争体験者の高齢化が年々進んでいるため、貴重な体験を次の世代にどのようにして伝えていくかが大きな課題になっている。
 県史編さんグループにも、わずかながら戦時期の資料が所蔵されている。今回紹介する資料は、1940(昭和15)年に刊行された「自家用簡易防空壕及(ぼうくうごうおよび)待避所の築造要領」と題された約20ページの冊子と、青焼きの「防空壕設計図」2面だ。第33話(09年4月24日付紙面)で紹介した元三重県庁の建築技師、夏池春吉氏が所蔵していた建築関係の資料の中にあった。
 冊子が刊行される前年の39年には、ドイツがポーランドに侵攻して大戦が勃発(ぼっぱつ)した。40年には国内で政党や組合が解散させられ、「大政翼賛会」や「大日本産業報国会」が結成される。東京オリンピックの中止が決まり、「ぜいたくは敵だ」という標語のもと、砂糖やマッチの配給切符制の導入や隣組が制度化され、戦時体制がいっそう強化され始めた。本土防空への啓発もなされていたが、当時の戦局は大陸中心だったため、本土空襲を現実問題として心配した一般国民は、まだ非常に少なかったのではないか。
 本土防空啓発として発行されたと思われるこの小冊子の冒頭には、「殊(こと)に市民の大部が防空能力に脆弱(ぜいじゃく)な木造家屋に住み(中略)空襲時敢然其(そ)の各家庭で戦って防空の完璧(かんぺき)を期さねばならぬ我が国(後略)」と対策の必要性を指摘。防空壕になじみがなかった国民のために、あり合わせの材料を利用してできる有効かつ経済的な「最も簡単な防空壕」から、コンクリートを用いた堅固なもの、さらに商店の待避所など21基を説明している。
 また、「防空壕設計図」はかなり退色しているが、2枚とも堅固な構造の防空壕だ。一方は坑木によって天井や側面が補強され、それぞれ逆方向に付けられた階段がある通路と本体部分はクランク状に屈曲した構造となっており、爆風などの影響を避けるためだったのだろう。もう一方は、コンクリート構造で、天井面には緩やかなカーブがつけられ、人が十分に立てる高さを持っている。
 この図面をもとに、実際にこういった大掛かりな防空壕がつくられたかは分からない。それぞれ、全体図の1枚しかないことと夏池氏が行政機関や公共関係の建造物を手がけていたことを考え合わせると、本土防空が啓発されていた時期に、公共機関への提案用として設計した図面だったのかもしれない。
 41年12月に太平洋戦争が始まり、42年にはドーリットル隊による初の空襲を東京が受ける。B29による本土空襲が本格的になるのは、制空権を失った44年以降で、そのころになると、各地で防空壕建設(掘り)のための作業が行われたようだ。川合村(現津市)の八太区長日誌にもそういった記述がある。
各地にあった戦争遺跡も、開発によって姿を消していく傾向にある。戦争遺跡にかかわる経緯を知っている方も少なくなりつつあるなかで、終戦時の混乱期をかいくぐって残された資料とともに、県内各地の戦争遺跡の聞き取りを含め、次の世代に確実に伝えていく必要がある。                 

(県史編さんグループ 伊藤裕之)

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