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第46話 参宮鉄道延長補充線路宮川橋梁之図


参宮鉄道延長補充線路宮川橋梁之図(古写真)

参宮鉄道延長補充線路宮川橋梁之図(古写真)

参宮鉄道延長補充線路宮川橋梁之図 伊勢志摩観光への契機

 JR参宮線で伊勢に向かうと、列車は外城田(ときだ)川の広い田園地帯の中を外城田駅、田丸駅、宮川駅と進んでゆく。斎王の離宮が置かれた国史跡離宮院跡に近い宮川駅を発車すると間もなく、伊勢市街を目前に広い川幅と豊かな水量を誇る宮川を渡る。
 渡れば神域に入るとされた宮川には、江戸時代までは堅固な橋が架けられず、街道を旅してきた参宮者たちは渡し舟で渡った。明治時代になり、宮川を伊勢街道が渡河する下の渡しに、洪水時などに部材を取り外す木製仮橋が架けられた。これに平行して1897(明治30)年に架けられた鋼鉄製の鉄道橋が、当時の参宮鉄道、現在のJR参宮線の宮川橋梁(きょうりょう)だ。
 英国製の鋼材を使った橋梁の主要部は、上下の桁(けた)材の間に斜材を太いピンなどで接合し、三角形を組み合わせた骨組みとして強度を持たせる「トラス構造」になっている。当初、側面の斜材が「逆ハの字」に並ぶ「プラットトラス」で、後に斜材がX状に交差する「ダブルワーレントラス」に改修された。
 トラス上面を線路が通る上路方式で、レンガ造りの橋脚の側面には切り石造りの三角水切りが付く。現在も稼働している明治期の貴重な近代土木遺産であり、広い宮川にかかる長いトラス橋とレンガ造り橋脚が調和したその姿は、美しく素晴らしい景観となっている。
 三重県立博物館に、宮川橋梁の工事風景を撮影した1枚の古い写真がある。明治・大正時代に政府の要職を歴任された方の子孫から寄贈いただいたもので、写真全体がセピア色になっているが、全紙サイズにほぼ近い縦42.6センチ、横54.4センチで、緑色の額縁状の模様が印刷された厚紙に貼られている。
 写真上部に「参宮鉄道延長補充線路宮川橋梁之図」と表題があり、右に「川幅延長壹千四百参拾九尺」、左に「土木建築請負業志岐組」と記されている。志岐組は明治後期以降に東海道本線の複線化などを施工した鉄道工事請負の大手会社だ。また、下方に名古屋の写真師「宮下欽」の名が見える。
 橋梁工事現場のやや下流の小俣町側から撮影されたようで、背後に外宮神域の高倉山や東方の朝熊山が薄く見える。折しも、宮川の河床には既にレンガ造り橋脚が建ち並び、手前の小俣町側から進められたプラットトラスの架橋工事は、川の中央を越えるあたりまで達している状況が写っている。竣工(しゅんこう)まであと数カ月というところだろうか。また、工事中の橋梁に重なるように、やや上流側には伊勢街道の木製仮橋が見える。
参宮鉄道株式会社の設立は1890年。既に開通していた関西鉄道会社の亀山―津駅間から延長する形で南下し、93年に宮川駅までが開通、97年には宮川橋梁が完成して伊勢の山田駅まで乗り入れた。
 参宮鉄道の全通を契機に、徒歩や人力車などで街道沿いの旅館を泊まり継ぐ参宮の旅が衰退し、遠隔地からも短期日で伊勢に至る鉄道旅行が主流となる。さらに二見・鳥羽などへの交通網や旅客受入れ施設などの整備も進み、伊勢参宮は伊勢志摩を包括する近代観光の核へと発展していく。この色あせた写真はその転換契機を今に伝える一枚なのである。
 このような古写真は私たち自身の、地域の、そして三重の歩んできた歴史や当時の人々の姿を物語ってくれる貴重な資料だ。今後、新しい県立博物館に向けて、このような写真資料も積極的に収集していきたいと考えている。    

(三重県立博物館 杉谷政樹)

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