第45話 伊勢参宮名所図会「阿漕浦の図」
伊勢参宮名所図会の「阿漕浦の図」
伊勢参宮名所図会「阿漕浦の図」 孝行伝承はどこから?
「伊勢参宮名所図会」(以下・図会)は、京都から伊勢までの名所・旧跡を紹介した伊勢参宮のガイドブックで、1797(寛政9)年に刊行された。大坂(現・大坂)の画家、蔀関月(しとみかんげつ)が挿絵を描いたとされ、文章も関月の作との説がある。図会はこの後、1802(享和2)年、48(嘉永元)年と版を重ねたベストセラーだった。三重県立博物館には、初版本が所蔵されている。
図会は付録1巻を含め6巻で構成され、3巻には名所の一つとして阿漕浦の図が紹介されている。阿漕浦といえば、阿漕平治の伝承がよく知られている。伊勢神宮の禁漁区であったとされる阿漕浦で、孝行者の漁師平治が、母の病気に薬効があるという魚「やがら」を獲(と)ろうと密漁を繰り返し、ある日、浜辺に名前入りの笠(かさ)を忘れたために密漁が発覚して捕らえられ、簀巻(すま)きにされて阿漕浦の沖深く沈められたという内容だ。
津市柳山平治町に阿漕塚があり、正面に「阿漕塚」、右側面に「天明二年壬寅年七月十六日建之」、左側面に「世話人岩田町綿内町弓之町」と刻字されている。この塚は平治の霊を慰め、孝心を讃(たた)えるために建立されたと伝えられている。
「天明2年」は1782年で、図会はその15年後に刊行された。阿漕浦の図には人知れず行う密漁ではなく、6艘(そう)の舟と、二手に分かれて険しい表情で言い争う10人を超える漁師が描かれている。「図は阿漕の草紙の意を写す」と解説されていて、孝子平治の伝承を描いたものではないことが分かる。
本文には「あこぎ物語」として、次のような内容が記されている。
――平治は人名ではなく、昔、平家の本国が伊勢国安濃郡だったため、平氏を平治(次)と誤ったものだ。伊勢掾(いせじょう、国司の三等官)、平次盛(たいらのつぎもり)が人を出して漁を行い、伊勢神宮に供える御贄(みにえ)を獲る漁を妨害した。このことを神宮に訴えると、次盛はさらに大がかりに妨害したため、神宮から国司に訴え、守(かみ、国司の長官)が軍を率いて次盛を攻め、捕えて処刑した。
図会刊行以前には、阿漕浦を舞台に密漁をテーマとした謡曲・浄瑠璃が3種ある。一つは、1532(享禄5)年に上演の記録がある「阿漕」で、阿漕という地元の漁師がどうしても漁をしたかったために密漁したとしている。次は、1676(延宝4)年原作の「あこぎの平治」で、漁師平次(元は丹波国天田の武士村上行春)が生活に窮したために密漁したという内容。もう一つは、宝暦年間(1751〜64)に上演されたという「勢州阿漕浦鈴鹿合戦」で、漁師(元は坂上田村麻呂の「家老」の息子・桂平治清房)が母の病気を治すのに「やがら」を獲るために密漁したとしている。
これらの内容は図会では触れられていないが、このように阿漕浦で密漁を繰り返すことから「あこぎな」という言葉が生まれたとされている。ただ、図会の平次盛の場合、密漁ではなく、公然と妨害行為を行っている。図会の筆者がこの説を採った理由は分かっていない。ちなみに、この筆者は「あこぎ物語」は次盛処刑の年代が不明で、また、次盛が系図に見えないとして、疑問を呈している。
現在まで語り継がれている平治像は、最初に述べたように次盛のような人物ではなく、母思いの地元の漁師だ。図会が紹介する説のほか、いくつかある密漁の物語から、どのような経緯で孝子伝承が育(はぐく)まれてきたのか。時代背景を考えながら人々の心情に迫りたい。
(県史編さんグループ 小坂宜広)