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第44話 二見浦の土産「貝細工」


かつて二見浦の土産物として隆盛を極めた貝細工=三重県立博物館所蔵

かつて二見浦の土産物として隆盛を極めた貝細工=三重県立博物館所蔵

二見浦の土産「貝細工」 観光客の盛衰とともに

 もうすぐ夏休み。海や山への旅行を心待ちにしている子どもたちも多いことでしょう。
 さて、旅行といえばお土産がつきものだが、今回紹介する「貝細工」は、かつて海水浴場として全国にその名をとどろかせ、二見浦の土産として一斉を風靡(ふうび)したものだ。西行法師が詠んだ「今ぞ知る 二見の浦の 蛤(はまぐり)を 貝合(かいあわせ)とて 覆ふなりけり」の歌でも知られているように、二見浦と貝の関係は意外と古いようだ。
 1895(明治28)年に発刊された「神都名勝誌」には、「産物貝細工 立石崎にこれを鬻ぐ(ひさぐ、売る)家多し。店頭に種々の介殻(かいがら、貝殻)を陳列す」とあり、夫婦岩のある立石崎の辺りには、物産としての貝細工を売る店がたくさんあったことが記されている。
 現在でも、その名残はJR二見駅から二見興玉神社へと続く沿道の土産物店に垣間見ることができる。二見といえば貝なのだ。
 写真の貝細工(帆船、宝船、クジャク)は、伊勢市在住の最後の貝細工職人から県立博物館に寄贈いただいた。1891(明治24)年生まれの先代が家業として貝細工を始められたのは戦後のこと。それ以前は、個々の家々で内職として作られたものを二見の土産物店に卸していたという。
 おそらく、初めは二見浦辺りで取れる貝が使われていたのだろう。使われている貝には、遠浅の砂浜、岩場、淡水や汽水にすむものもある。豊かな自然を背景にさまざまな地形が入り組む二見浦ならではの土産と言える。
そして、二見の観光客の増加に伴い次第に増える需要は、貝細工作りを産業として確立させ、伊勢を全国屈指の生産地に押し上げた。
 材料の貝殻を三河湾や琵琶湖などから仕入れることにより大量生産を可能にした貝細工の最盛期は、昭和40年代。修学旅行などの団体旅行が二見浦に押し寄せたこの時期には、伊勢市内に貝細工を専門とする企業が15軒ほどあり、それぞれに数十軒の下請けがあったというから、いかに需要があったかがしのばれる。1カ月間に5000個作っても間に合わなかったというから、驚きだ。
 しかしこの貝細工作りにも、かげりが見え始める。環境汚染で貝が取れなくなったという理由もないわけではないが、それよりも人々の旅行のスタイルが変わったことと住まいが変わったことが大きな要因らしい。
団体旅行が減り、誰もが気軽に旅に出るようになると、旅の思い出となる「置物」は売れなくなり、代わりに誰にでも喜ばれる食品が好まれるようになった。また、新しい家では置物の定位置である床の間や棚が姿を消したことも、衰退の原因と言われている。
 伊勢志摩観光の隆盛とともに歩んだ貝細工。伊勢で唯一の貝細工職人も生産をやめた今、その「お土産」は、三重県の観光や産業を物語る「資料」となった。そして今度は、お店ではなく博物館のガラスケースの中で、子どもたちの笑顔を待っている。

(三重県立博物館 宇河雅之)

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