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第41話 有節万古の図案や見積もりなど届け書


森 有節の届け書

森 有節の届け書

万古焼図案

万古焼図案

有節万古の図案や見積もりなど届け書 将来の博物館へ買い付け

 1878(明治11)年9月1日から10月15日まで、津公園(藤堂家の別荘跡、現在の偕楽公園)を会場に「県内物産博覧会」が開催された。3214人から1万171品が出品され、観客動員数は7万人にのぼる盛況ぶりだった。
 三重県ホームページの「明治期県庁文書(もんじょ)目録」で「物産博覧会」をキーワードに検索すると、約7300件の資料群の中から6件がヒットする。そのうちの1冊「明治十一年 物産博覧会一件」には、森有節(ゆうせつ、1808〜82)が県に差し出した届け書が3通とじられている。森有節は、沼波弄山(ぬなみろうざん、1718〜77)のあと途絶えた万古焼の再興に取り組んだ桑名の人物で、彼の作風は「有節万古」と称される。
 有節から提出された届け書の日付は、早いものから順に9月6日、9月12日、10月13日で、物産博覧会の期間中に当たる。いずれも万古焼の代価を作品ごとに箇条書きにした見積書で、9月6日と12日のものには、各作品の図柄や形・大きさを示した図案(挿図)が添えられている。
 当初、「物産博覧会一件」の簿冊にとじられていることもあって、私は、これは博覧会への出品届けであり、価額は参考程度のものであると思い込んでいた。しかし今回改めて読んでみると、興味深いことが分かってきた。
 それは、当時、県が有節万古の買い付けを検討しており、有節が図案や価額の見積りを提出したのはそのためだったということだ。ただ、陶器製造には相当時間がかかり、製造中の物から県が選ぶことにした、ということだった。
 県はこの時期、何を目的に有節の万古焼を買い求めたのだろう。有節の資料からは分からなかったが、同じ簿冊にとじられた別の資料では「将来博物館ヘ備置ノ見込」のため買い上げたいという一文があり、将来、博物館が建設された際の収蔵品として、精力的に買い集めていたことが明らかになった。
 そのときの有節万古に対する県の評価を県職員の伺い文から見てみると、「該家(森家)の青磁薬は四日市その他の万古焼に類似しがたき得意の焼方」とあり、有節の青磁が非常に優れていたことが分かる。
 有節も、この時の作品を「天覧」の機会があることを知り、「木地より出来上りに至るまで別段入精」し、薬品類も「殊に良薬相撰候(あいえらびそうろう)」と、かなり力を入れている。このため、当初の見積りより増額になることを県に申し入れ、県はこれを認め、11月11日にほかの産物を含めて買い入れを決定した。有節の万古焼の買い付け額は33円50銭、ほかの物産も合わせて総額74円85銭だった。
物産博覧会の閉幕後、列品場だった施設が博物館に転用されたようで、1882、83年度には修繕が行われている。しかし、その後どのような経緯をたどったのかは不明だ。85年に開設された物産陳列場につながったのだろうか。
 また残念ながら、県が買い上げた有節万古がどこにいったのかも分かっていない。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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