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第39話 外宮御宮絵図


広げた状態の外宮御宮地図の一部

広げた状態の外宮御宮地図の一部

折り畳んだ状態の外宮御宮地図

折り畳んだ状態の外宮御宮地図

外宮御宮地図 保存状態いい大型彩色絵図

三重県には、近世から近代にかけての絵図・地図が約3400点所蔵されている。明治前期の地籍図を中心に、同時期の河川図や寺社図のほか、近世の国絵図や村絵図などがあり、県の歴史を調査研究する上で貴重な情報を提供してくれる。
 今回紹介する「外宮御宮地図」は、広げると縦253センチ、横182センチにもなる大型の彩色絵図で、保存状態もたいへん良い。ほぼA4サイズの大きさに折り畳まれ、表紙に「外宮御宮地図」と墨書されている。
現代の地図とは東西南北の表し方が異なり、南が画面の上にくる。全体のおよそ4分の3を占める高倉山を含めた25万3183坪の広大な外宮神域が描かれている。
凡例には、路地が黄、池川が青、境界が朱で示され、社殿や門、参道などの配置が名称と共に詳細に記されている。落ち着いた色合いの画面から、当時の外宮の様子を具体的に知ることができる。
画面左下には、1791(寛政3)年6月の日付と、外宮長官の黒印が認められ、この地図が写本ではなく正本であることが分かる。当時の長官は度会常陳(つねつら)で、1785(天明5)年5月に外宮長官となり、この地図に捺印(なついん)した2カ月後の8月16日に60歳で亡くなっている。
 外宮正殿の左上に見える風宮から高倉山へ登る道は「岩戸道」と記され、画面右手に描かれた山頂の「岩戸」へと続いている。この「岩戸」は、巨大な横穴式石室を持つ高倉山古墳を指している。古墳の石室は全長が18.5メートル、幅3.3メートル、高さ4.1メートルという全国でも屈指の規模を誇る。発掘調査などにより、6世紀後半の造営と考えられている。
鎌倉時代には、既に石室が開口していたようで、神話で高天原にあったという「天の岩戸」になぞらえられ、古くから信仰の対象となっていた。地図中には「手水所」や「茶所」「高天原神楽殿」が記されている。
また、1797(寛政9)年に上梓(じょうし)された「伊勢参宮名所図会」にも、高倉山の神楽殿や茶屋などが描かれ、岩戸の前には庇(ひさし)のような建築物が見える。
 この地図が、なぜ県庁に伝来したのかは、残念ながらよく分からない。ほかの神宮関係の絵図類として、摂社・末社の境内を描いた明治期の丈量図があるが、それらは神宮司庁から三重県庁あての封筒に入れられており、1902(明治35)年4月23日引き継ぎと記されている。この「外宮御宮地図」も、何らかの事情で県庁に引き継がれたものだろうが、詳しくは分かっていない。          

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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