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第36話 坂下宿絵図


坂下宿絵図

坂下宿絵図

坂下宿絵図 峠越えで栄えた宿場

ゴールデンウィーク中に家族や友人と遠出を楽しまれた方も多いだろう。高速道路料金の大幅な割引で車の利用が集中して交通渋滞の情報が目立ったが、人や物の移動には通行が容易で便益施設が整った道路が不可欠。このため古今東西、為政者は自国の道路網の整備に力を注いできた。
江戸時代には、幕府が五街道などの主要街道を直接管理し、諸大名が領内の諸街道を整備した。五街道の筆頭である東海道は1601(慶長6)年から宿駅制が整備され、当初は48宿、後に追加されて53宿となり、東海道五十三次と呼ばれた。伊勢国内では、尾張国に至る七里の渡と近江国境の鈴鹿峠の間に桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、坂下の7宿が置かれた。
今回は、鈴鹿峠の東麓に置かれた坂下宿を描いた「坂下宿絵図」を紹介する。
坂下宿は室町時代の将軍や公卿の参宮記などに宿所、休息所として登場し、早くから鈴鹿越えの宿場として機能していたようだ。しかし、1650(慶安3)年の寅年(とらどし)の出水によって集落の大半が失われたため、やや下方に位置する現在の地に移転したという。
この絵図は、図中に「四拾八年以前寅年大水により坂下宿流れ」とあるところから、移転から約48年後の元禄年間に描かれた絵図の写しと考えられている。
和紙を張り合わせた縦70センチ、横92センチの紙面に、北を上に坂下宿を中心として沓掛(くつかけ)村から鈴鹿峠までが収められている。四周を険しい山々に囲まれた鈴鹿川の谷筋に、長方形に枠取られた所が坂下宿だ。東海道は沓掛村から坂下宿を通って西方に延び、北西方向に転じた後は鈴鹿峠に至るつづら折れの険しい上り坂として描かれている。
また、坂下宿の北に法安寺と、徳川家康などが上洛の折に休息したという護国寺(金蔵院、現在は廃寺)が、西方にかつて鈴鹿明神と呼ばれた片山神社の鳥居と石段、社殿が描かれている。その北側には、古くは同社の神体山とされた三ツ子山がよく似た山容で並び、鈴鹿峠には茶屋・田村堂が見える。
残念ながら、坂下宿内の細部は表記されていないが、かつては大竹屋、松屋、梅屋の3本陣と小竹屋脇本陣が並び建ち、1843(天保14)年の「東海道宿村大概帳」には宿内の旅籠(はたご)は48軒と記録されている。この書によれば、旅籠の数は亀山宿21軒、関宿42軒、土山宿44軒であり、坂下宿が関、土山と並んで険しい鈴鹿越えの重要な宿場であったことが分かる。
「東海道名所図会」にも、「この宿の本陣の家広くして世に名高し」「大竹・小竹とて大きなる旅舎あり。これを俗に本陣・脇本陣などという」と図入りで紹介され、当時その繁栄ぶりが広く知られていたことがうかがえる。
鉄道網の整備で宿場の機能が薄れ、現在は自然豊かな山懐に抱かれた静閑な集落となっている坂下宿だが、絵図などの史料をひもとくことによって往時の活況を知ることができる。このような地域の姿を見つめ直すための重要な資産となる多くの史料が、博物館には保存されている。                  

(三重県立博物館 杉谷 政樹)

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